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運命の出会い  10

運命の出会い 10

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1954年夏の終わり、私が夢を抱いて未知の大国、アメリカへ留学した丁度一年後、私の運命は急展開してしまった。こんなに単純に生涯の伴侶を決めてしまって良いのだろうか。今思い出して、婚約後、うぶな20歳の私には少しの迷いもなかった。60年を経たいまもこれで良かったのだと思っている。と同時に何と不思議な運命だったのかと思い返し、あらためて驚いている。

サンフランシスコの空港で崇の父親を見送った後、崇を助けて運転の役を担ってくれた天野さん、崇の親友、大石さんを加えた一行四人は東に向かって再び大陸横断をして、無事シカゴへ戻ってきた。

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夏休みが終わると、崇はケニヨンで最終学年のシニア(senior)、私はデニソンで第二学年のソフモア(sophomore)となった。アメリカの大学で奨学金給付可の成績を維持しながら所定の単位を取るためには、かなりの努力が必要だったが、2年目ともなると英語にも慣れてきて、必須のスピーチの科目にも挑戦できたし、しばしば要求される論文や、期末テストにも余裕をもって取り組めるようになった。崇も4年生となり、歴史を専攻していたので、卒業試験や論文と取り組んでいた。

フレッシュマン時代のストーンホールは丘の下にあったが、ソフモアの寮は小高い丘の上に立つていた。舎監をおかない学内唯一つの、学生が自主的に運営する寮で、チャペル、大学総長宅、天文台と続くチャペルへの道に並んで建つ瀟洒な邸宅風の建物だった。(アーカイブス「夢の留学9 2015/2」写真入りの紹介文をご覧ください)同寮の女子学生達が集まって、私の婚約を祝って夜になってサプライズ・パーティーをしてくれたり、私がよく世話になっていた英語担当の先生や他の友人も集めて社交クラブの部屋でwedding shower と呼ばれる正式のお祝もしてくれた。

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週末になると崇は必ず私とデートするためにデニソンにやってきたが、婚約をしていたので、落着いた気分でデートを楽しめた。広大なキャンパス内にある大学対抗のフットボールの試合をよく見に行った。

ケニヨンでは、ビリヤード(玉突き)場の管理をアルバイトとしてやっていた崇に、玉突きを教えてもらったこともある。デニソンのカレッジタウンであるグランヴィルの街中にあったボウリング場へもしばしば行って楽しんだ。


休暇中シカゴで日本人の友人たちを相手によくマージャン、トランプ(アメリカでは「カード」という)をして遊んだ。崇はスポーツが大好き、カード等、ゲームも大好きだった。ケニヨンの男子学生に囲碁を教えてすごく興味を持ち上達したものもいたほどだった。


ケニヨン卒業ガウン&パイプ0028
翌年1955年6月崇は無事ケニヨンを卒業した。そして、勉学を続けるために選んだのはアメリカ聖公会のヴァージニア神学校だった。

いくつかの名門大学院へ進学することも考えたが、学部生としてのトップクラスの成績を要求されるし、学費が高額で、そのための奨学金を獲得することも難しかった。

その点ヴァージニア神学校は日本へ多くの宣教師を送った学校であり、著名な教授陣を擁していた。崇はここで、学費から生活費まで賄えるほどの給付を受けることができたことで、入学を決意したのだった。この神学校を卒業すれば、聖職への道に繋がることはわかっていた。学者になるための学問ができないというわけではなかったが、諸般の事情でこの神学校入学を選んだのだった。

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ヴァージニア神学校は立教学院の創立者、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教の出身神学校ですね。
八代主教様の書物や文章にはケニオン大学時代のことはよく書かれておられるのですが、ヴァージニア神学校時代のことを述べられた文章は寡聞にして存じ上げません。私の記憶では、わずかに北関東教区100周年記念礼拝のときの説教を文章化した「宣教ということ」に神学校へ進学されるときの経緯が少し触れられているだけです。

この後の本ブログの記事を心待ちにしております。
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