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運命の出会い 1

運命の出会い 1


denison spring 1
 週日は授業や宿題で忙しい学生達も土日の休暇にはパーティーやデートにでかける事が多かった。

当時、日本には「お見合い」「仲人」などの慣習があり、親が相手の家柄などを考慮して子女の結婚相手を選ぶ場合が多かった。一方、アメリカでは結婚相手は自分で探すのが当然とされていたので、大学のキャンパスは男女交際の格好の場所であった。
(左写真はデニソン大学の天文台)
 


Miss yoko 縮小 

ある日私は一通の手紙を受け取った。
封筒の表にはMiss Yoko
Room 215 Stone Hall Denison University
Granville,Ohio
差出人は J.T.Yashiro
Kenyon College  Gambier,Ohio
薄紫色でケニヨンの校舎のイラストとKenyon collegeの文字が入ったレター・ペーパーに記された内容は縦書きで以下の通り


「突然で失礼ですが、ここのカレジのDick Troyanという友達からあなたの事をお聞きしたので、一筆します。
彼のガール・フレンドが毎土曜日こちらに来ますので、もしよければこの次の土曜日あたり一緒に遊びにいらしたら如何ですか?他所のキャムパスを見て廻るということも意義あることと思います。
お互いに遠く故郷を離れて異国で勉強しているんですから、励まし合い、助け合うのは必要なことと思います。ことにデニスンとここはさほど離れているわけでもないんですから。
少し春らしくなって来ましたから、ピクニックでもするつもりで遊びに来てくれたらと思います。
甚だ乱筆で失礼。
八代崇
Yoko様」
消印はMAR 8,1954

denison spring2
入学後、すでに半年が過ぎ、フレッシュマン生活にも慣れてきた頃である。同じストーン・ホールには手紙にあるディックのガールフレンド,アンのほかに私のルームメートのジェーン、その他の数名がケニヨンの学生と交際していた。デニソンは共学だったが、ケニヨンは男子校だったので、デニソンの女子を求めて、交流が盛んだった。
私のことをYOKOとしか知らない日本からの留学生の手紙に、私は自己紹介をした返事を書いた。

すぐに返事がきた。
 
「御返事どうも有難うございました。あの手紙を出してから、実はあまりの無謀というか、厚かましいというか、ラストネームも知らずに、いきなり手紙を出すとはと我ながら少々あきれたところです。そしてやぶから棒式に遊びに来いなんて言ったもんだから、恐らく返事も貰えないだらうと思ってました。どうも失礼しました。
物の順序として自分の紹介でも先にすべきだったと思います。で遅まきながら自己紹介します。
(左写真はデニソンキャンパス:チャペルへのpathway)


denison fall 1
僕は神戸出身ですが、中学をでて立教大学の予科に入り、新学校制度適用によって立教の新制大学に入り、二年まで居りました。東京には昭和23年から26年3月まで足掛け四年、丸三年は居たわけです。その間、渋谷、池袋、板橋と住居を変えて、立教に通ったわけです。26年の3月立教を退学して同年8月渡米、爾来このケニヨンに居ります。英語が不十分だったし、課目が大分違っていたもんですから、ここではフレッシュマンから始め、やっとジュニアになったわけです。ここにはあと一年ちょっといるわけですが、アメリカにはまだあと4,5年はいる予定です。出来れば母校立教に帰って教職につきたいと思いますので。
青山と聞いて非常に懐かしく思いました。青山学院大学に行ってた友達も、二、三居りましたけれど、それより渋谷の永住町という所にいた予科一年の時、さほど遠くない青山学院にはよく夕方など遊びに行ったからです。
 ・・・・中略* (右上写真は秋のキャンパスで  左下の写真:シニア(4年生)の時にいた寮の前で親友と)

denison fall 2
僕達の春休みが3月27日から4月5日迄ありますので、来週の土曜日がだめなら、恐らく春休み前にはこちらには来て頂けないと思います。実は中古品の自動車を今日明日中に友人から手に入れることになっていますのでウィークデイでもお暇な時にこちらからは遊びに行けると思いますが・・・もしお邪魔でなければの話ですが・・・

とにかく、ここに来てから三年近く、こんなオハイオの片田舎で日本からの人に会えるなんて夢にも思ってませんでしたが、その上、ケニヨンの名を知ってる日本人が居るなんて想像しがたいです。何年こちらに居られる予定か知りませんが、わずか18哩位しか離れていない所に居るんですから今後とも宜しくお願いします。
どうも乱筆(と言うより悪筆)で失礼。ではまた、八代崇」

*私が青山学院高等部在学中、部長を勤められていた峰尾都治先生はケニヨンに留学された英文学者だったので、私はケニヨンの名を知っていた。中略にそのことが書いてあるが、私が峰尾先生の名を出さなかったので彼が知っていた金子先生(やはりケニヨンに留学された方なのだと思う)と勘違いしていた。


takasi 53
カレッジによって、春休みの時期は違っていた。私と同期のグルー基金奨学生、月井美智子さんはイリノイ州にあるノックスでやはり寮生活を送っていたが、春休みに入るということで、3月半ばに私を訪ねてデニソンにくることになっていた。ケニヨンから私に手紙をくれた八代崇に私は手紙か、電話か忘れたが、連絡をとり、月井さんに合わせて来てもらうことにした。日本人留学生同士ということで、話しがはずむと思った。デニソンの演劇部がグランヴィルの小さな劇場で上演する機会があったので、その夜の時間に合わせて彼に来てもらうように連絡した。
彼は手に入れたばかりの中古車で、自分はまだ免許証を手に入れていなかったので、一人の日系二世の友人に運転を頼んで一緒にやってきた。アメリカ式に言えば、「ダブル・デート」だが、私はデートをする気分ではなかった。まだ実際に会ったこともない男の学生に特別な感情も期待ももてるわけもなかったし・・・
 ストンホールの部屋で月井さんと待っていた時、階下の受付から「あなたを訪ねてきた男子学生がいますよ」の室内電話が入り、私がまず一人で広い階段を下りて行きながら、その男の姿が目に入った時、一瞬立ち止まった。彼が私を見上げ目が合ったその瞬間の場面は今なお脳裡にやきついている。
演劇が終わった後、コーヒーショップに入り、しばらくお喋りし、さらに車に乗ってからも前席の男子学生一人と後席の私たちは喋りつづけた。勿論日本語で・・・日系二世の学生は全く日本語を話さないので、理解できたかどうかもわからない。気の毒にと私は内心思ったが、八代崇と月井さんの二人はお喋り同志で話がつきず、無口な私が口をはさむ余地はなかったほどだった。(写真は当時22歳の八代崇)

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「出来れば母校立教に帰って教職につきたいと思います」という八代主教の手紙は驚きです。当時すでに大学教員への道を意識して勉学に励まれていたのですね。
以前のブログに主教が「もう少し英国史をアメリカの大学で学びたかった」という希望を述べられたお話が載っていました。もしバージニア神学校に進まなければ、立教で英国史を講じていたかもしれませんね。
もっとも、こういう仮定の話を歴史家でもある八代主教が聞いたら「歴史に『もしも』はということは無い」と戒められるかもしれません。
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