ニューヨーク到着
約一日かかってニューヨークに到着し、宿泊先のインターナショナル・ハウスに落ち着いた。ジャパン・ソサイエティーで歓迎を受け、三日ほど観光を楽しんだ。
マンハッタン島を船で巡り、摩天楼を眺め、自由の女神の塔にも上った。当時は最高のビルと言われたエンパイアステートビルにも上った。新しく建設されたガラス張りのUN(国連)ビルは圧巻だった。
左写真: 新しく建設されたガラス張りのUN(国連)ビル
左写真: エンパイアステートビルの屋上で
左写真:リバーサイド・チャーチ
左写真:自由の女神
左写真:月井、久山、入江(男性3人の中央)二人の日本人留学生が案内してくれた。
広々した緑の大木に囲まれた公園や、見上げるような教会の塔など、テレビの無い時代、たまに映画を見るくらいの高校生だった私には、ニューヨークはやはり夢の世界の連続だった。
夜になって、ロックフェラー・センターの中にある劇場、ラジオ・シティーで見た映画は、封切りされたばかりの「ローマの休日」だった。オードリー・ヘップバーンとグレゴリ―・ペック主演の明るいコメディータッチのこの映画は後に不朽の名作となったが、生の英語を聴きなれていなかった私は、想像をたくましくしながらストーリーを追うしかなかった。
9月11日、いよいよ四人の仲間が別れて、それぞれの大学へ出発する日になった。入江さんはペンシルヴァニア州のハヴァフォード、伊藤さんはニュージャージー州のラフィエット、月井さんはイリノイ州のノックス、私はオハイオ州のデニソン、
いずれもグルー奨学基金によって推薦された小規模な名門のリベラル・アーツ・カレッジで、学費は入学先のカレッジから給付されることになっていた。
私が乗った列車は、デニソンのあるグランヴィルという大学街に近いニューワーク駅に翌早朝に到着することになっていた。
夕方発車した夜行列車だったので、外の景色も見えず車内も消灯されたので、初めての異国の一人旅はひどく心細かった。車内放送などなかった。あったとしても、早口で短く、何を言っているのかわからなかっただろう。見回りにやってきた車掌に「ニューワークに到着する前になったら知らせて下さい」と頼んだが、車掌はうなづいただけで、通じたかどうか、自信がなかった。夜通しまんじりともできなかった。
到着時間は分かっていたので、見当をつけて降りる準備をしていると、車掌が回って来た。「ありがとう」と言ってお礼を言い、無事に降り胸をなでおろした。
ニューワークの駅にはデニソン大学で数学の教授をしていた日本出身の加藤先生が出迎えに来て下さっていた。長年アメリカに居住され、奥様も日系二世で、二人とも英語を話された。加藤先生の車で約20分後にデニソン大学の町、グランヴィルに着いた。
約一日かかってニューヨークに到着し、宿泊先のインターナショナル・ハウスに落ち着いた。ジャパン・ソサイエティーで歓迎を受け、三日ほど観光を楽しんだ。
マンハッタン島を船で巡り、摩天楼を眺め、自由の女神の塔にも上った。当時は最高のビルと言われたエンパイアステートビルにも上った。新しく建設されたガラス張りのUN(国連)ビルは圧巻だった。





広々した緑の大木に囲まれた公園や、見上げるような教会の塔など、テレビの無い時代、たまに映画を見るくらいの高校生だった私には、ニューヨークはやはり夢の世界の連続だった。
夜になって、ロックフェラー・センターの中にある劇場、ラジオ・シティーで見た映画は、封切りされたばかりの「ローマの休日」だった。オードリー・ヘップバーンとグレゴリ―・ペック主演の明るいコメディータッチのこの映画は後に不朽の名作となったが、生の英語を聴きなれていなかった私は、想像をたくましくしながらストーリーを追うしかなかった。
9月11日、いよいよ四人の仲間が別れて、それぞれの大学へ出発する日になった。入江さんはペンシルヴァニア州のハヴァフォード、伊藤さんはニュージャージー州のラフィエット、月井さんはイリノイ州のノックス、私はオハイオ州のデニソン、
いずれもグルー奨学基金によって推薦された小規模な名門のリベラル・アーツ・カレッジで、学費は入学先のカレッジから給付されることになっていた。
私が乗った列車は、デニソンのあるグランヴィルという大学街に近いニューワーク駅に翌早朝に到着することになっていた。
夕方発車した夜行列車だったので、外の景色も見えず車内も消灯されたので、初めての異国の一人旅はひどく心細かった。車内放送などなかった。あったとしても、早口で短く、何を言っているのかわからなかっただろう。見回りにやってきた車掌に「ニューワークに到着する前になったら知らせて下さい」と頼んだが、車掌はうなづいただけで、通じたかどうか、自信がなかった。夜通しまんじりともできなかった。
到着時間は分かっていたので、見当をつけて降りる準備をしていると、車掌が回って来た。「ありがとう」と言ってお礼を言い、無事に降り胸をなでおろした。
ニューワークの駅にはデニソン大学で数学の教授をしていた日本出身の加藤先生が出迎えに来て下さっていた。長年アメリカに居住され、奥様も日系二世で、二人とも英語を話された。加藤先生の車で約20分後にデニソン大学の町、グランヴィルに着いた。