ソルスベリーの虹
鈴木育三
二十三年前の夏、立教大学主催のヨーロッパ研修旅行に、チューターとして参加しました。
リーダーは八代崇教授。研修目的は英国の福祉を学ぶことにありました。
(写真下:右から5人目 筆者の鈴木育三氏 7人目<一列目中央>八代崇)

私にとって初めてのヨーロッパ旅行でしたので不安と緊張でいっぱい。羽田からモスクワ経由でパリへ。
機上の人となるやいなや、教授は、「まずは、ワインで乾杯しよう。今度、スチュワーデスが来たら、
de vin rouge s’il vous plais, といってごらん。」という。
「ドゥヴァンルージュ、スィルヴプレ」。赤ワインが登場。以来、私の唯一のフランス語となりました。
フランスの旅で、今でも思い出深いのは、ボーズ平原に建つシャルトルへの巡礼。初めて目にするゴシックの大聖堂(カテドラル)。正面扉口タンパンには、「聖母子」、「荘厳のキリスト」、「キリスト昇天」が刻まれ、聖堂内は真夏の日ざしが、ステンドグラスを透してさし込み、深い海の底にいるかのよう。三つのバラ窓は、さながら空に浮かんだ花火のように見えます。
「シャルトルの魅力は、ステンドグラスの美しさ、聖堂の荘厳さにもあるが、クリプト(地下聖堂)にある」と教えられたのは、この時。
幾時間も、ここに留まって、教授の講義を聴き続けたいと思いましたが、パリへもどる列車の時刻が来てしまいました。

帰途、ヴェルサイユ宮殿に立ち寄ったのはよかったのですが、宮殿内で教授とはぐれ、同行の学生たちと汗だくになって、アチラ、コチラ探し歩き回りました。意を決して、学生たちとパリへ帰ろうと宮殿広場に来ると、ルイ十四世騎馬像の下に教授に似た人物が座っています。
近づいてみると、一休みしていた教授は、「アレ、ここで落ち合うことにしていたのじゃなかったカナ」と平然とのたもうた。
ヴェルサイユには「便所が無かった話」も面白かったが、教授は秘かに、マリー・アントワネットの「田舎の家」を訪ねていたとのこと。
(写真:ヴェルサイユ庭園の中のマリー・アントワネットの〝田舎の家″)
カレーからドーヴァ海峡を舟で渡りましたが、白い壁は、雨にけぶって残念ながら見えません。

英国へ渡った私たちは、ガイドよりも、教授の説明に熱中しました。
ロンドン塔に行けば、守衛をみて、「彼等は、ビーフ・イータというのだ。つまり牛食いだナ」。
「ここのカラスの先祖は、タワーヒルの処刑者の肉を食ったそうだ。」という。首切り台や、あの斧を見れば、 そう見えてくるから不思議。
ウェストミンスターでは、「これが戴冠式の椅子だヨ。石が入っているだろう。持っていかれないようにしてあるのサ」。
トラファルガー・スクエアで、「ちょっと入ってみようか」と奇妙な店に入りました。
コインをいれてノゾキ穴から見ると、今日風のAVが見られる仕掛。アッという間にコイン切れ。
コーチから窓の外を見ていると、「ウ―ム、この辺だナ。処刑場のあったところは・・・。首つりだナ」。教授の目には、私たちに見えないイギリス宗教革命の時代が見えるらしい。
「ここだ。クランマーが火あぶりになった場所は」と、オックスフォードのクライスト・チャーチの余韻に浸っている間もなく説明する。(写真:前列右から二人目が鈴木育三氏)

シェイクスピアの生誕の地、ストラットフォード・アポン・エヴォン。
「これなんだか分かるかい」と杖のついたナベみたいなものを指さして、「これはネ。炭を入れてベッドを温めるんだヨ」ナールホド。西洋のアンカというわけだ。
シェークスピアの墓所を訪ね、アン・ハザウェイス・コティジの庭で、教授は「これが英国の味だヨ」とスコーンと紅茶の美味しさを教えてくれました。ハーフティンバーハウスのブラック・アンド・ホワイトの美しさが、窓辺に飾られたゼラニュウムの真紅の色とともに今も脳裏に焼きついています。
(写真右上:ストラットフォード・アポン・エヴォンの家並み)
バース、ウェルズの大聖堂、そしてグラストンベリー・アビィーの廃墟を訪ね、ロンダの町へ。
産業革命によってバブルした炭鉱の町ロンダ。その爪跡は、山肌に刻まれています。町の入口には、「富みよりも徳望を」と書かれたアーチ。
ソーシャル・センターを訪ね、ここで初めて、車椅子ごと乗れるリフト・バスにおめにかかりました。
チリン、チリンと鈴が鳴り、ここでも、スコーンをいただいた。今でもスコーンを焼いてくれたヴォランティア のおばさんの顔を思いだす。「ウェルズ人は、人情が厚いヨ」と教授が言ったっけ。

(写真左:通りの中央を歩く八代崇)
夕闇が迫る頃、海沿いのリー・アビィーにやっと到着。学生たちは、ここでキャンプ・イン。
旅に疲れた身を近くのホテルで休めていると、学生が二人失踪。地元の警察が捜しているとの報告。フランスで も同様のことがありましたが、ここでも教授は、少しもあわてず、「大丈夫だヨ。見つかるヨ」といって、
スコッチをお飲みあそばしておられた。案の定、しばらくして、二人は無事帰還。チョト、近くでランデブーし ていたらしい。

翌日、教授と私は、一泊の旅に出ることになりました。近くの駅で往復切符を買い出発。
まず、ソルスベリー・アビーへ。大聖堂は、あまりにも美しかった。その荘厳な尖塔の上に、八月の午後の陽が、大きな虹をかけていました。生涯忘れることの出来ない光景。
(写真右:ソルスベリーの写真、カードの絵より)
次にウィンチェスターへ向かうことになった。教授は、「腹がへったが、今日はバンキング・ホリデーで銀行業務は休み。まあ安上がりにいこう」と、フィッシュ・アンド・チップスの店に入ることになりました。
こうして揚げたてを、新聞紙にくるむンダ」。英国庶民の味は、空き腹には大層うまかった。
ウィンチェスターに着いた時は、もう暗くなっていた。安宿を探してグルグルと大聖堂の周囲を巡ったが、
結局、近くのホテルに宿泊することになりました。
教授が「小銭があるか」と聞く。ポケットから少し出すと、すまして、ボーイにチップを渡す。
部屋に入ると、「紅茶がある。これを飲んで我慢する」。しばらく休息した後、「オイ、パブに行くぞ」。
カウンターで酒を注文する教授。今日は、金が無いと言っていたのに変だと思っていると・・・
「アハハハ・・・。こういう金は持っているのサ」とケロッとしている。

(写真左:旅行中、くつろぐ八代崇)
翌朝、目にした大聖堂の大きさには驚かされました。聖堂内は、まるで墓所。床には、いたる処にタブレットがあり、周囲には、王侯貴族・高位聖職者の棺。中には、首をチョン切られた像があります。まるで歴史博物館だ。教授は、「これは十二世紀の黒大理石の洗礼盤。これは、×××のチャントリー。」次から次へと教授は解説を続けていく。
「ジャンヌ・ダルクもいたナ。確か、レディス・チャペルの近くだったと記憶するが・・・。」
覚えきれない程の徹底的な実物教育を受けました。
次にエクセターに立ち寄る。ソルスベリー、ウィンチェスターの大聖堂を見た後では、もはや驚きはしないが、十四世紀の大時計、キャプテン・スコットの南極大陸探検の旗が掲げられているには、少々感激。
教授は天井を指差し、「あそこにトマス・ベケット斬殺場面の装飾がある。四人の騎士が、ひざまずく大主教に剣を振り下ろし、それをクロスベアラーが防いでいる」と深い思いをこめて説明してくれた。
エクセターの駅に着くが、列車は来ない。駅員に聞くと、その列車はセントラル・エクセターから出発するので、この駅は通過するという。
そこから坂道をころげるようにセントラル・エクセター駅まで走りに走った。列車に乗り込むと、待っていたかのように、動き始めました。
これで珍道中は終わりかと思ったら、下車駅で乗ったバスが途中でエンコ。その時、教授少しもあわてず運転手と一緒に近くのパブに入り、チョット一杯。とうとうこのバスは動かなかった。
遠い昔の夢のような八代教授との旅。教授は、私に生涯忘れえぬ素晴らしい思い出を残してくれました。


(写真上左:崇画サンチャゴさんのスケッチ 写真右:サンチャゴの像を眺める崇)聖ヤコブ(サンチャゴ)は崇の洗礼名
昨年十二月、志木の主教宅を訪ねた折『サンディヤゴ』さんの話になった。岡野主教の贈ったスペイン・聖ヤコブの聖地のお土産を見ながら、コーチに座ったヤコブ主教は「実は、まだスペインに行っていないんだヨ。もし行くとしたら、役職も地位も離れて旅をしたいネ」とボソッとおっしゃった。
数ヵ月後、三月十二日ヤコブ主教逝去の知らせを受けた。予期された事とはいえ、寂しかった。
棺の中のヤコブ主教の顔は、英国の大聖堂で見た聖人の顔に似ていた。何故かあのソルスベリー大聖堂にかかった虹を思い出しました。
サンディヤゴさんは、旅に出た。全てのものから自由になって・・・。
今頃は、サンディヤゴ・デ・コンポステーラの巡礼者たちを見守っているかナ・・・。
(八代主教には、社会福祉法人新生会後援会、第四代会長職をおとりいただき、絶えず祈りをもってご支援いただきました。心より感謝いたします。また、お陰様で、念願でありました、「桜が丘三ホーム」の完成記念式を四月十日に行いました。)
社会福祉法人新生会 榛名憩いの園 園長 鈴木育三 昭41年英米文学科卒)
立教学院諸聖徒礼拝堂発行: チャペル ニュース (1997年4月号)より
今年は主人没後16年になります。この記事は39年前のお話です。妻・洋子記
鈴木育三
二十三年前の夏、立教大学主催のヨーロッパ研修旅行に、チューターとして参加しました。
リーダーは八代崇教授。研修目的は英国の福祉を学ぶことにありました。
(写真下:右から5人目 筆者の鈴木育三氏 7人目<一列目中央>八代崇)

私にとって初めてのヨーロッパ旅行でしたので不安と緊張でいっぱい。羽田からモスクワ経由でパリへ。
機上の人となるやいなや、教授は、「まずは、ワインで乾杯しよう。今度、スチュワーデスが来たら、
de vin rouge s’il vous plais, といってごらん。」という。
「ドゥヴァンルージュ、スィルヴプレ」。赤ワインが登場。以来、私の唯一のフランス語となりました。
フランスの旅で、今でも思い出深いのは、ボーズ平原に建つシャルトルへの巡礼。初めて目にするゴシックの大聖堂(カテドラル)。正面扉口タンパンには、「聖母子」、「荘厳のキリスト」、「キリスト昇天」が刻まれ、聖堂内は真夏の日ざしが、ステンドグラスを透してさし込み、深い海の底にいるかのよう。三つのバラ窓は、さながら空に浮かんだ花火のように見えます。
「シャルトルの魅力は、ステンドグラスの美しさ、聖堂の荘厳さにもあるが、クリプト(地下聖堂)にある」と教えられたのは、この時。
幾時間も、ここに留まって、教授の講義を聴き続けたいと思いましたが、パリへもどる列車の時刻が来てしまいました。

帰途、ヴェルサイユ宮殿に立ち寄ったのはよかったのですが、宮殿内で教授とはぐれ、同行の学生たちと汗だくになって、アチラ、コチラ探し歩き回りました。意を決して、学生たちとパリへ帰ろうと宮殿広場に来ると、ルイ十四世騎馬像の下に教授に似た人物が座っています。
近づいてみると、一休みしていた教授は、「アレ、ここで落ち合うことにしていたのじゃなかったカナ」と平然とのたもうた。
ヴェルサイユには「便所が無かった話」も面白かったが、教授は秘かに、マリー・アントワネットの「田舎の家」を訪ねていたとのこと。
(写真:ヴェルサイユ庭園の中のマリー・アントワネットの〝田舎の家″)
カレーからドーヴァ海峡を舟で渡りましたが、白い壁は、雨にけぶって残念ながら見えません。

英国へ渡った私たちは、ガイドよりも、教授の説明に熱中しました。
ロンドン塔に行けば、守衛をみて、「彼等は、ビーフ・イータというのだ。つまり牛食いだナ」。
「ここのカラスの先祖は、タワーヒルの処刑者の肉を食ったそうだ。」という。首切り台や、あの斧を見れば、 そう見えてくるから不思議。
ウェストミンスターでは、「これが戴冠式の椅子だヨ。石が入っているだろう。持っていかれないようにしてあるのサ」。
トラファルガー・スクエアで、「ちょっと入ってみようか」と奇妙な店に入りました。
コインをいれてノゾキ穴から見ると、今日風のAVが見られる仕掛。アッという間にコイン切れ。
コーチから窓の外を見ていると、「ウ―ム、この辺だナ。処刑場のあったところは・・・。首つりだナ」。教授の目には、私たちに見えないイギリス宗教革命の時代が見えるらしい。
「ここだ。クランマーが火あぶりになった場所は」と、オックスフォードのクライスト・チャーチの余韻に浸っている間もなく説明する。(写真:前列右から二人目が鈴木育三氏)

シェイクスピアの生誕の地、ストラットフォード・アポン・エヴォン。
「これなんだか分かるかい」と杖のついたナベみたいなものを指さして、「これはネ。炭を入れてベッドを温めるんだヨ」ナールホド。西洋のアンカというわけだ。
シェークスピアの墓所を訪ね、アン・ハザウェイス・コティジの庭で、教授は「これが英国の味だヨ」とスコーンと紅茶の美味しさを教えてくれました。ハーフティンバーハウスのブラック・アンド・ホワイトの美しさが、窓辺に飾られたゼラニュウムの真紅の色とともに今も脳裏に焼きついています。
(写真右上:ストラットフォード・アポン・エヴォンの家並み)
バース、ウェルズの大聖堂、そしてグラストンベリー・アビィーの廃墟を訪ね、ロンダの町へ。
産業革命によってバブルした炭鉱の町ロンダ。その爪跡は、山肌に刻まれています。町の入口には、「富みよりも徳望を」と書かれたアーチ。
ソーシャル・センターを訪ね、ここで初めて、車椅子ごと乗れるリフト・バスにおめにかかりました。
チリン、チリンと鈴が鳴り、ここでも、スコーンをいただいた。今でもスコーンを焼いてくれたヴォランティア のおばさんの顔を思いだす。「ウェルズ人は、人情が厚いヨ」と教授が言ったっけ。

(写真左:通りの中央を歩く八代崇)
夕闇が迫る頃、海沿いのリー・アビィーにやっと到着。学生たちは、ここでキャンプ・イン。
旅に疲れた身を近くのホテルで休めていると、学生が二人失踪。地元の警察が捜しているとの報告。フランスで も同様のことがありましたが、ここでも教授は、少しもあわてず、「大丈夫だヨ。見つかるヨ」といって、
スコッチをお飲みあそばしておられた。案の定、しばらくして、二人は無事帰還。チョト、近くでランデブーし ていたらしい。

翌日、教授と私は、一泊の旅に出ることになりました。近くの駅で往復切符を買い出発。
まず、ソルスベリー・アビーへ。大聖堂は、あまりにも美しかった。その荘厳な尖塔の上に、八月の午後の陽が、大きな虹をかけていました。生涯忘れることの出来ない光景。
(写真右:ソルスベリーの写真、カードの絵より)
次にウィンチェスターへ向かうことになった。教授は、「腹がへったが、今日はバンキング・ホリデーで銀行業務は休み。まあ安上がりにいこう」と、フィッシュ・アンド・チップスの店に入ることになりました。
こうして揚げたてを、新聞紙にくるむンダ」。英国庶民の味は、空き腹には大層うまかった。
ウィンチェスターに着いた時は、もう暗くなっていた。安宿を探してグルグルと大聖堂の周囲を巡ったが、
結局、近くのホテルに宿泊することになりました。
教授が「小銭があるか」と聞く。ポケットから少し出すと、すまして、ボーイにチップを渡す。
部屋に入ると、「紅茶がある。これを飲んで我慢する」。しばらく休息した後、「オイ、パブに行くぞ」。
カウンターで酒を注文する教授。今日は、金が無いと言っていたのに変だと思っていると・・・
「アハハハ・・・。こういう金は持っているのサ」とケロッとしている。

(写真左:旅行中、くつろぐ八代崇)
翌朝、目にした大聖堂の大きさには驚かされました。聖堂内は、まるで墓所。床には、いたる処にタブレットがあり、周囲には、王侯貴族・高位聖職者の棺。中には、首をチョン切られた像があります。まるで歴史博物館だ。教授は、「これは十二世紀の黒大理石の洗礼盤。これは、×××のチャントリー。」次から次へと教授は解説を続けていく。
「ジャンヌ・ダルクもいたナ。確か、レディス・チャペルの近くだったと記憶するが・・・。」
覚えきれない程の徹底的な実物教育を受けました。
次にエクセターに立ち寄る。ソルスベリー、ウィンチェスターの大聖堂を見た後では、もはや驚きはしないが、十四世紀の大時計、キャプテン・スコットの南極大陸探検の旗が掲げられているには、少々感激。
教授は天井を指差し、「あそこにトマス・ベケット斬殺場面の装飾がある。四人の騎士が、ひざまずく大主教に剣を振り下ろし、それをクロスベアラーが防いでいる」と深い思いをこめて説明してくれた。
エクセターの駅に着くが、列車は来ない。駅員に聞くと、その列車はセントラル・エクセターから出発するので、この駅は通過するという。
そこから坂道をころげるようにセントラル・エクセター駅まで走りに走った。列車に乗り込むと、待っていたかのように、動き始めました。
これで珍道中は終わりかと思ったら、下車駅で乗ったバスが途中でエンコ。その時、教授少しもあわてず運転手と一緒に近くのパブに入り、チョット一杯。とうとうこのバスは動かなかった。
遠い昔の夢のような八代教授との旅。教授は、私に生涯忘れえぬ素晴らしい思い出を残してくれました。


(写真上左:崇画サンチャゴさんのスケッチ 写真右:サンチャゴの像を眺める崇)聖ヤコブ(サンチャゴ)は崇の洗礼名
昨年十二月、志木の主教宅を訪ねた折『サンディヤゴ』さんの話になった。岡野主教の贈ったスペイン・聖ヤコブの聖地のお土産を見ながら、コーチに座ったヤコブ主教は「実は、まだスペインに行っていないんだヨ。もし行くとしたら、役職も地位も離れて旅をしたいネ」とボソッとおっしゃった。
数ヵ月後、三月十二日ヤコブ主教逝去の知らせを受けた。予期された事とはいえ、寂しかった。
棺の中のヤコブ主教の顔は、英国の大聖堂で見た聖人の顔に似ていた。何故かあのソルスベリー大聖堂にかかった虹を思い出しました。
サンディヤゴさんは、旅に出た。全てのものから自由になって・・・。
今頃は、サンディヤゴ・デ・コンポステーラの巡礼者たちを見守っているかナ・・・。
(八代主教には、社会福祉法人新生会後援会、第四代会長職をおとりいただき、絶えず祈りをもってご支援いただきました。心より感謝いたします。また、お陰様で、念願でありました、「桜が丘三ホーム」の完成記念式を四月十日に行いました。)
社会福祉法人新生会 榛名憩いの園 園長 鈴木育三 昭41年英米文学科卒)
立教学院諸聖徒礼拝堂発行: チャペル ニュース (1997年4月号)より
今年は主人没後16年になります。この記事は39年前のお話です。妻・洋子記