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八代崇主教召天3周年記念に寄せて

八代崇逝去3周年記念式
説教  竹田真東京教区主教

 八代崇主教の逝去3周年の記念の聖餐式に説教者としてお招きを受けたことを光栄に思っております。先日甲籐先輩からお招きを受けた時は、八代主教と親しくしていた者が集まって、水入らずの記念をしたいと言うことで、説教という言葉を使わずに、「ちょっと話をしてくれ」と命令されましたので、気楽な話をするつもりでやって参りました。ところが、案内状には「説教者」となっており、「首座主教」という肩書が付けられていました。非常に緊張しております。しかし、(そういうわけで)今日の私の話は八代主教とのパーソナルな関係が中心になると思いますが、お許しいただきたいと思います。

 八代主教とのお付き合いは大分古く、中学生のころからのことと記憶しております。お兄さんの欽一主教も私が中学生だった頃、すでに神学生で、この方はかなり威張っておられる方で、私などは殴られたこともあるほどです。古い付き合いとはいえ、八代欽一、崇兄弟とは必ずしも表面的には仲睦まじいお付き合いとは言えなかったようであります。お互いに主教になっても、気持の上では、その頃からの関係が続いていたようです。

 私がもっているアルバムには、八代崇主教と一緒に撮った写真がかなりあります。主教会の時などの威儀を正している写真以外は、どういうわけか、すべて一緒に飲んでいる酒の席の写真です。誰かそこに居合わせた人が、意図は分かりませんが、撮ったのだと思います。
  
竹田主教と飲む2
八代主教は同労者として霊的な友人であったと確信していますが、その交わりの〝霊的“は信仰的スピリットであるよりも、〝液体のスピリット”の交わりの方に偏っていたのではないかと思います。このことを、私は反省しながら申し上げているのではなく、八代崇主教の偉大さを学ぶことができたのは、このような席での交流だったと信じております。従って、今日の話は、そのようなスピリットの交わりの経験からの追悼の言葉になりますのでお許しを頂きたいと思います。(写真:中央 八代崇、右端 竹田主教)

 
 八代主教の健康の具合が悪くなったのは、1980年代の終わり頃だったと思います。私が主教になる以前は、聖公会の教理部や神学教育の会合でのお付き合いでした。そのような時もセッションが終わると、飲む機会が多かったようです。私が主教になって間もなく、私の事務所を訪ねて来られました。東京教区の聖職をひとり北関東に譲ってほしいという、話合いのためです。その時ちょうど事務所に贈り物のウィスキーがテーブルの上に置いてありましたので、ちょっと飲んで行きませんか、と言うと、例により平然として、まだ昼間だったのですが、「一杯頂きましょう」と始めました。結局一杯ではなく、杯を重ねることになり、聖職の人事の交渉より長くなり、愉快に話したことを覚えています。
 
 竹田主教と飲む 2縮小
八代主教は立教にいた頃は、池袋に行きつけの飲み屋があって、そこにも何回か御相伴にあずかったこともあります。健康を害される、かなり以前から、一緒に飲んだ時には何回も「俺は66で死ぬ」と聞かされたことを思い出します。彼は1931年生まれで、亡くなったのは1997年、正確にいえば65歳で1年予告より早かったと言えますが、数えで言えば予告が当たったと言えます。どのような根拠でこのような予告をされたのか、神のみ告げであったのか、歴史学者としての深い瞑想からの発想なのか、あるいは自分の医学的診断によるのかよく分かりませんが、その頃から、何か思うところがあったのかも知れません。
(写真:右端 竹田主教 その隣は武藤京都教区主教)

 
主教という職務はなかなか精神的、肉体的ストレスが大きい仕事なので、その精神の圧迫を紛らわすためにアルコールを飲むことが多いのです。海外の主教でもアルコール中毒にかかる主教の話を時々聞きます。しかし、八代崇主教の場合は違っていたと思います。彼は、酒を酒として、楽しみながら飲みました。泥酔はしません。静かに飲んでいます。一般の主教がストレスとなる教会の仕事の思い煩いなどは、八代主教にとっては本質問題ではなかったのです。
 
 そのような交わりを通して知らされた八代主教の姿は、一方においては極めて謙遜な姿勢を貫いた聖職であるということであります。ところが、他方、いつも、どんな事態に直面しても悠然としている、悪く言えば(気の小さい私のような者から見れば)図々しいと思われるほどの、主教でありました。教会の一つや二つ潰れてもどうっていうことはない、聖職人事で部下の聖職や会衆に不平不満があっても意に介さない、そういうような態度で教会の教導職を執行されたようです。教会史の学者であると同時にいつもその歴史を信仰的に、神学的に反省されて、その職務と取り組んでおられました。
 
 そういう意味で彼はいわば「ガマリエル主義者」でありました。「計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは出来ない」という歴史観です(使徒言行録5:38-39)。彼の歴史観には、教会の歴史は神によって動かされているという信念が ありました。
  
 普通の歴史学者と違って彼の信念、ないしは信仰がありました。そこには使徒から伝承された信仰を伝えるための、神が制定した器というか、パイプがあり、それが聖公会の歴史的主教制に基づいた聖職制度であるということです。その制度そのものも不変なもので、従ってこれは安易に変革すべきものではないというのが主教の主張でありました。そのような主教職を担っていることが彼の誇りであり、また聖公会の主教として命をかける、神から委託された使命だと自覚されていたようです。
 
 同時に八代主教は、教会の基礎は教団教派を超えた「普遍的教会」であること、つまり神の教会をこの歴史的実態として教会こそ『天下の聖公会』であると認識していたということです。ローマ・カトリックもメソディストもこの超越した普遍的教会の下にある教会なのです。このような教会の認識は、昔のヨーロッパ的また英国教会的な教会観です。アメリカという新世界に行くと、もう教会は教派の教会になってしまいます。かつての英国では、ローマ教会もメソディストもバプティストも、英国教会の教区の中に包含された分派教会(セクト)でした。このような教会観は、昔のアングリカンのエスタブリッシュメントの立場に立っていたようです。
 
 カンタベリー大聖堂 油彩 八代崇OR1103310046
一口で言えば八代主教は、かつての英国教会のエスタブリッシュメントの立場に立つ、聖公会の聖職だったと思います。   1970年代にはやった言葉を使えば、カトリック教会の「体制派」の精神を持っていました。エスタブリッシュメントに対抗する、いわゆる反対派を嫌いました。ですから、八代主教はアングリカン(聖公会)の主教になるべく生まれた男です。そのことはおそらく自分でも自覚していたようです。生まれながらの「紫」、「紫」の似合う男でした。( Becomes purple, Born purple) 格好の良い、アングリカンダンディーで、ジェントルマンの格好をした聖職でした。残念ながらこのような姿の聖職は日本聖公会はもちろん、いまでは英国でも次第に見かけられなくなりました。彼は、着るものや履くものはあまり頓着しませんでしたが、アングリカンのエリート精神をもって、いわば、その格好も精神もアングリカンの Dandyismを身につけていました。「聖公会は美しく、秩序と品格のある教会であるべき」という信念の持ち主でした。この点で、聖公会を俗っぽく(世俗化)、民衆化し、反体制派として教会の品格を落とす動きの元凶だった私のChurchmanshipとはかなり違っていました。(崇による油彩・カンタベリー大聖堂)
 
 彼は、聖公会の主教はそのようなエリートであるがゆえに、一般庶民とは一線を画しながら、しかし同時に指導者エピスコペを担うものとして、民衆の救済のための奉仕に命をかける使命を負わされているという信念で主教職に献身されたのです。(noblesse oblige!)。ここに八代主教の主の僕としての謙遜と、教会を教導するエピスコペとしての権威、悠然さの根拠がありました。

 彼が、何が起こっても平然としいるのはこのような信念からだったと思います。普通だったらパニックになるような危機や行き詰まりに直面しなければならない事態になっても、平然と、まず一杯飲んでからおもむろに腰をあげる、そのような大人物の姿勢を持っていました。「なるようにしかならない」という歴史観、じたばたしても仕方がないという態度がありました。そのような態度で主教職を執行していたので、ある時には成り行きまかせ、という風に批判されることがありました。

 同時に、もう一つの八代主教らしい歴史観を持っていたようです。つまり歴史というものは人間の弱さに制約されて、現実は決して理想通りにはいかないものという、悟りを持っていました。女性聖職按手には反対していましたけれども、それは聖公会主教としての反対です。決してローマ・カトリック教会に転回するなどといいうことは夢にも考えていなかったようです。「そのうちローマ・カトリックもコロッと変わって、女性司祭を決めるかもしれないな」などと、まじめな女性司祭批判者が飛び上がるようなことを、アルコールが入ったときなどには平気で語ってしまうことがありました。
 
 歴史というものは、神が支配する聖なる歴史だからこそ、謙遜に従わなければならないということと、理想的にはいかない、弱い人間的制約のもとにある歴史の中に置かれているという謙遜な現実主義でした。そのような歴史の中で、自分の肉体的制約、地上の人生の最後の行き詰まりを平然と受け止めながら、神に召されました。最後の66歳で終わるという見通しは、残念ながら1年早すぎましたが、日本聖公会のダンディーな主教は、神のもとに呼び戻され、いまや永遠の愛のもとで平安に休息しているものと信じます。



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