八木基督教会創立百周年記念に寄せて
八代洋子
八代崇が赴任した事情

八代崇は1959年7月、神戸の聖ミカエル大聖堂で八代斌助主教より司祭按手を受け、神戸教区に所属すると同時に、1960年から桃山学院大学に教員として勤めていました。
当時京都教区の主教であった森譲師父から、八代斌助主教に崇を、大学の教職はそのままにして、八木キリスト教会の管理牧師として定住してほしいとの要請がありました。
1965年4月、夫婦と5歳の長男、3歳の長女、6ヶ月の次男の一家5人は奈良県橿原市にある八木基督教会の牧師館に移住いたしました。
未熟な牧師を信徒の方々が支えてくださる

34才になっていた主人は司牧者としては八木基督教会が始めての教会でした。
私は東京育ちで、高卒後すぐに米国の大学へ留学し、卒業後すぐに結婚し、一年後主人の神学校卒業を待って帰国しました。東京在住の両親が日本基督教団の信徒で、私は幼児洗礼を受けていましたが、日本の聖公会という名の、しかも地方の教会とはどんなものか、全く知りませんでした。
子供三人に手がかかる上に、次女が八木で三年目に生まれて子供が四人になり、牧師の妻として教会のお手伝いは何もできず、もっぱら子育てに専念していました。八木基督教会には、名家、旧家の二代目、三代目の熱心な信徒の家族が多く、未熟な牧師夫婦をしっかりと支えて下さいました。
(写真:裏庭にある牧師館から見る教会。右端にヴェストリーへの入り口がある。
信徒たちの教会での活動と交わり
毎日曜日の礼拝出席者は平均20から30名くらいだったでしょうか。それでもクリスマスや、イースター、伝道集会などには礼拝堂がいっぱいになりました。特別な聖日には、礼拝が終わると2階の畳の広間に席を移して祝会が開かれました。
ちょうどその頃ご婦人たちが相談して、塗りのお重のお弁当箱が個々に揃えられました。お料理の上手なご婦人が多くいらして、お得意の料理を持ち寄ったり教会の台所で作ったりして、きれいにお重に詰められました。料亭のお弁当顔負けの出来栄えでした。
委員会や婦人会にはヴェストリー〈教会付属室〉が使われ、週日や夜にも開かれて、いろいろ熱心なご相談があったようです。私は委員会にでませんでしたが、そのご相談の結果のひとつが納骨堂でした。

ある時、牧師館の陽の当たる縁側からよく見える、広々とした庭の片隅に納骨堂が、見る見る出来上がったのには驚きました。子供たちは忍者ごっこと称して、その入り口の二,三段の階段を飛び降りたり、飛び上がったりして喜び、主人はそれをビデオに撮って逆回しをして後ろ向きに飛び上がっている忍者のように見せ、面白がっていました。太陽が燦燦と降り注ぐ納骨堂の明るいイメージが印象に残っています。(写真:赤い車を前に、階段に腰掛ける次男)
青年会の活動
土曜日になると青年達が集まってきました。多いときは30人もいたでしょうか。その半数近くは未信徒で、掃除が済むと、皆でおうどんか何か作って、食べたり、議論したり、楽しそうに過ごしていました。当時は谷昌二さん(現在沖縄教区主教)が中心になって皆をまとめていました。気の合う仲間を求めて、青年たちは自然に集まるものだと思いました。個性的で、魅力的な若者がそろっていました。信徒のほうがおとなしくて、未信徒が威張っていたり、実に面白い青年グループでした。日曜日も午後になるとどこからともなく、同じメンバーが再び現れ、にぎやかなことでした。

その中には神を求めて来る者もいて、やがて導かれて信仰に入る者もでます。夏には海で3泊4日のキャンプをしたり、秋には山にハイキングに行ったりしていました。主人もよく子供を連れて、参加していました。
青年や若手の壮年たちが伝道区の野球の試合に出て優勝したこともあります。主人が優勝旗を若手の壮年、入井さんに手渡している写真が残っています。入井さんは主人よりも若いのに主人より少し先に惜しくも召されましたが、教会が大好きな、万年青年でした。もう一人、主人の召される2年前に、若くして召された女性が寺見さん、当時は高校の英語教師の傍ら、オルガニストとして奉仕され、我が家の子供たちの相手もよくしてくれました。青年会の中心的なメンバーの一人でした。
近隣の教会との交流

近隣にあった桜井聖パウロ教会、田原本聖救主教会の2教会も管理することになっていましたので、日曜日の晩に桜井と田原本に交互に聖餐式に行っていました。桜井には付属幼稚園もありましたが、こちらの園長はH司祭がなさっていました。主人は子供たちを車に乗せて連れて行き、よく夕食をご馳走になりました。主人と子供たちにとって楽しいひとときだったようです。
高田基督教会には、やはり桃山学院大学の教職にあった小谷司祭がおられて、よく交流がありました。主人の洗礼名をとったヤコブ会という壮年の会が結成されたときにも、これら3教会の壮年の方々が加わり、意気盛んだったことを覚えています。(前から2列目:右から2人目入井さん、4人目津留司祭、前列左端谷主教の父上、3人目谷現沖縄教区主教、5人目谷主教の母上、右端の幼児次男の誠、(多分、父の崇が撮影している)
伝道師として都留孝夫さん、山口わかこさん赴任

主人が平日は大学に通っていましたので、それを補う意味もあったと思います。沖縄教区出身の都留孝夫執事、次に山口わかこ伝道師が近所に部屋を借りて住み、主人を助けてくれました。
都留執事が司祭に按手されたときには、八木の信徒を代表して何人かの方が連れ立って、神戸の聖ミカエル大聖堂での式に参列されました。まだ占領下にあった沖縄を、当時のことですから船で、八木の青年、壮年たちが訪問し、沖縄教区の青年や愛楽園の信徒たちと交流したこともありました。
(写真:前列右端:八代崇司祭、中央:津留新司祭、八木の信徒に囲まれて)
天の会衆
八木基督教会で、主人をしっかり支えて下さった若い入井さん、寺見さんが主人より先に天国へ旅立たれ、当時主人より年上だった多くの方々も大半は天国におられます。親しかった兄弟姉妹たちが待っていて下さると思えば、天国への旅路も楽しみです。

私たちが八木を離れて上京した一年後に召された中村実さんという方がいらっしゃいました。少し足がご不自由でマッサージ師をしておられたと思います。よく牧師館にこられて主人の身体をマッサージして下さいました。力が強くて痛すぎることもあったらしいのですが・・・
主日礼拝を欠かすことはなく、大斎中の早朝聖餐に出席される数少ない信徒のひとりでした。 礼拝後はよく主人のところへきて、説教についてコメントされていました。「『・・・と思います』、では駄目です。『そうである』と言い切って下さい」と、中村さんにとっては、主人の説教が生ぬるいようでした。中村さんの葬送式の説教で、主人は「中村さんは幼子のごとく神さまを信じきった人でした。まっすぐ天国へ迎えられたことを確信します」と述べています。(前列左から3人目 八代崇司祭 左端 マッサージ師の中村さん)
教会にはさまざまな人生を歩んでこられた方がいて、よく身の上話を聞かせてくださいます。私が聞き役になる場合もあり、教えられることが沢山ありました。私は苦難の道を歩んでこられた皆様のお話を聞かせていただけることが牧師夫人として一番の貴重な経験だったと思います。この世の戦いを終えて、天国に憩う方々の平安を祈るばかりです。

1970年は八木基督教会の創立六十周年記念の年でした。北海道教区主教になられたばかりの渡辺政直師父を説教者として招き、盛大な記念礼拝が行われました。その前後のことでしたが、10月10日、崇の父の八代斌助主教が天に召されました。主人は父のお通夜には出ずに、当然のことですが、八木での記念大礼拝に留まりました。
(前列左から3人目:森京都教区主教、4人目:渡辺北海道教区主教であり、首座主教、前列右から4人目:八代崇司祭)
結び
翌年1971年の3月、主人が立教大学へ赴任するため、私たちは八木を離れました。東京では立教大学教授となり、後に神田基督教会の管理牧師も同時に勤めました。1985年1月に北関東教区主教に按手され、1997年3月に65歳の生涯を終えました。
主人が生きていたらもっと多くの方々のことや、重要な事柄を具体的に記すことが出来たと思うと残念です。私が思い出すままに35年前の記憶をたどりながら書かせていただきました。偏った記録が多々あると思います。お許しください。

大和三山に囲まれた、美しく穏やかな自然と日本の歴史の香りに包まれた良き地に、六年に及ぶ年月を過ごすことができたことは本当に幸いでした。子供たちにとっても大切な幼少年期を温かな信徒の方々に囲まれて、祈りの中に恵まれた日々を過ごすことができ、人生の滋味豊かな基礎が養われたと思います。
神さまに感謝しております。
八木基督教会百周年記念誌に寄稿したもの
2010年11月3日 記念式が行われ出席しました。
八代洋子
八代崇が赴任した事情

八代崇は1959年7月、神戸の聖ミカエル大聖堂で八代斌助主教より司祭按手を受け、神戸教区に所属すると同時に、1960年から桃山学院大学に教員として勤めていました。
当時京都教区の主教であった森譲師父から、八代斌助主教に崇を、大学の教職はそのままにして、八木キリスト教会の管理牧師として定住してほしいとの要請がありました。
1965年4月、夫婦と5歳の長男、3歳の長女、6ヶ月の次男の一家5人は奈良県橿原市にある八木基督教会の牧師館に移住いたしました。
未熟な牧師を信徒の方々が支えてくださる

34才になっていた主人は司牧者としては八木基督教会が始めての教会でした。
私は東京育ちで、高卒後すぐに米国の大学へ留学し、卒業後すぐに結婚し、一年後主人の神学校卒業を待って帰国しました。東京在住の両親が日本基督教団の信徒で、私は幼児洗礼を受けていましたが、日本の聖公会という名の、しかも地方の教会とはどんなものか、全く知りませんでした。
子供三人に手がかかる上に、次女が八木で三年目に生まれて子供が四人になり、牧師の妻として教会のお手伝いは何もできず、もっぱら子育てに専念していました。八木基督教会には、名家、旧家の二代目、三代目の熱心な信徒の家族が多く、未熟な牧師夫婦をしっかりと支えて下さいました。
(写真:裏庭にある牧師館から見る教会。右端にヴェストリーへの入り口がある。
信徒たちの教会での活動と交わり
毎日曜日の礼拝出席者は平均20から30名くらいだったでしょうか。それでもクリスマスや、イースター、伝道集会などには礼拝堂がいっぱいになりました。特別な聖日には、礼拝が終わると2階の畳の広間に席を移して祝会が開かれました。
ちょうどその頃ご婦人たちが相談して、塗りのお重のお弁当箱が個々に揃えられました。お料理の上手なご婦人が多くいらして、お得意の料理を持ち寄ったり教会の台所で作ったりして、きれいにお重に詰められました。料亭のお弁当顔負けの出来栄えでした。
委員会や婦人会にはヴェストリー〈教会付属室〉が使われ、週日や夜にも開かれて、いろいろ熱心なご相談があったようです。私は委員会にでませんでしたが、そのご相談の結果のひとつが納骨堂でした。

ある時、牧師館の陽の当たる縁側からよく見える、広々とした庭の片隅に納骨堂が、見る見る出来上がったのには驚きました。子供たちは忍者ごっこと称して、その入り口の二,三段の階段を飛び降りたり、飛び上がったりして喜び、主人はそれをビデオに撮って逆回しをして後ろ向きに飛び上がっている忍者のように見せ、面白がっていました。太陽が燦燦と降り注ぐ納骨堂の明るいイメージが印象に残っています。(写真:赤い車を前に、階段に腰掛ける次男)
青年会の活動
土曜日になると青年達が集まってきました。多いときは30人もいたでしょうか。その半数近くは未信徒で、掃除が済むと、皆でおうどんか何か作って、食べたり、議論したり、楽しそうに過ごしていました。当時は谷昌二さん(現在沖縄教区主教)が中心になって皆をまとめていました。気の合う仲間を求めて、青年たちは自然に集まるものだと思いました。個性的で、魅力的な若者がそろっていました。信徒のほうがおとなしくて、未信徒が威張っていたり、実に面白い青年グループでした。日曜日も午後になるとどこからともなく、同じメンバーが再び現れ、にぎやかなことでした。

その中には神を求めて来る者もいて、やがて導かれて信仰に入る者もでます。夏には海で3泊4日のキャンプをしたり、秋には山にハイキングに行ったりしていました。主人もよく子供を連れて、参加していました。
青年や若手の壮年たちが伝道区の野球の試合に出て優勝したこともあります。主人が優勝旗を若手の壮年、入井さんに手渡している写真が残っています。入井さんは主人よりも若いのに主人より少し先に惜しくも召されましたが、教会が大好きな、万年青年でした。もう一人、主人の召される2年前に、若くして召された女性が寺見さん、当時は高校の英語教師の傍ら、オルガニストとして奉仕され、我が家の子供たちの相手もよくしてくれました。青年会の中心的なメンバーの一人でした。
近隣の教会との交流

近隣にあった桜井聖パウロ教会、田原本聖救主教会の2教会も管理することになっていましたので、日曜日の晩に桜井と田原本に交互に聖餐式に行っていました。桜井には付属幼稚園もありましたが、こちらの園長はH司祭がなさっていました。主人は子供たちを車に乗せて連れて行き、よく夕食をご馳走になりました。主人と子供たちにとって楽しいひとときだったようです。
高田基督教会には、やはり桃山学院大学の教職にあった小谷司祭がおられて、よく交流がありました。主人の洗礼名をとったヤコブ会という壮年の会が結成されたときにも、これら3教会の壮年の方々が加わり、意気盛んだったことを覚えています。(前から2列目:右から2人目入井さん、4人目津留司祭、前列左端谷主教の父上、3人目谷現沖縄教区主教、5人目谷主教の母上、右端の幼児次男の誠、(多分、父の崇が撮影している)
伝道師として都留孝夫さん、山口わかこさん赴任

主人が平日は大学に通っていましたので、それを補う意味もあったと思います。沖縄教区出身の都留孝夫執事、次に山口わかこ伝道師が近所に部屋を借りて住み、主人を助けてくれました。
都留執事が司祭に按手されたときには、八木の信徒を代表して何人かの方が連れ立って、神戸の聖ミカエル大聖堂での式に参列されました。まだ占領下にあった沖縄を、当時のことですから船で、八木の青年、壮年たちが訪問し、沖縄教区の青年や愛楽園の信徒たちと交流したこともありました。
(写真:前列右端:八代崇司祭、中央:津留新司祭、八木の信徒に囲まれて)
天の会衆
八木基督教会で、主人をしっかり支えて下さった若い入井さん、寺見さんが主人より先に天国へ旅立たれ、当時主人より年上だった多くの方々も大半は天国におられます。親しかった兄弟姉妹たちが待っていて下さると思えば、天国への旅路も楽しみです。

私たちが八木を離れて上京した一年後に召された中村実さんという方がいらっしゃいました。少し足がご不自由でマッサージ師をしておられたと思います。よく牧師館にこられて主人の身体をマッサージして下さいました。力が強くて痛すぎることもあったらしいのですが・・・
主日礼拝を欠かすことはなく、大斎中の早朝聖餐に出席される数少ない信徒のひとりでした。 礼拝後はよく主人のところへきて、説教についてコメントされていました。「『・・・と思います』、では駄目です。『そうである』と言い切って下さい」と、中村さんにとっては、主人の説教が生ぬるいようでした。中村さんの葬送式の説教で、主人は「中村さんは幼子のごとく神さまを信じきった人でした。まっすぐ天国へ迎えられたことを確信します」と述べています。(前列左から3人目 八代崇司祭 左端 マッサージ師の中村さん)
教会にはさまざまな人生を歩んでこられた方がいて、よく身の上話を聞かせてくださいます。私が聞き役になる場合もあり、教えられることが沢山ありました。私は苦難の道を歩んでこられた皆様のお話を聞かせていただけることが牧師夫人として一番の貴重な経験だったと思います。この世の戦いを終えて、天国に憩う方々の平安を祈るばかりです。

1970年は八木基督教会の創立六十周年記念の年でした。北海道教区主教になられたばかりの渡辺政直師父を説教者として招き、盛大な記念礼拝が行われました。その前後のことでしたが、10月10日、崇の父の八代斌助主教が天に召されました。主人は父のお通夜には出ずに、当然のことですが、八木での記念大礼拝に留まりました。
(前列左から3人目:森京都教区主教、4人目:渡辺北海道教区主教であり、首座主教、前列右から4人目:八代崇司祭)
結び
翌年1971年の3月、主人が立教大学へ赴任するため、私たちは八木を離れました。東京では立教大学教授となり、後に神田基督教会の管理牧師も同時に勤めました。1985年1月に北関東教区主教に按手され、1997年3月に65歳の生涯を終えました。
主人が生きていたらもっと多くの方々のことや、重要な事柄を具体的に記すことが出来たと思うと残念です。私が思い出すままに35年前の記憶をたどりながら書かせていただきました。偏った記録が多々あると思います。お許しください。

大和三山に囲まれた、美しく穏やかな自然と日本の歴史の香りに包まれた良き地に、六年に及ぶ年月を過ごすことができたことは本当に幸いでした。子供たちにとっても大切な幼少年期を温かな信徒の方々に囲まれて、祈りの中に恵まれた日々を過ごすことができ、人生の滋味豊かな基礎が養われたと思います。
神さまに感謝しております。
八木基督教会百周年記念誌に寄稿したもの
2010年11月3日 記念式が行われ出席しました。