主教八代崇師父を偲ぶ ジュリアン中村 茂
八代師父と山手聖公会
北関東教区主教にして首座主教の八代崇師父が、3月12日、65歳の若さで逝去された。主教は1992年3月15日の大斎節第2主日に、山手聖公会で『変わるものと変わらないもの』と題する講話をして下さった。先生が主教として山手の私達に直接語りかけられたのは、あれが最初で最後だった。
聖公会の至宝・学者・牧会者
聖公会信徒の「師父たちの第一人者」である首座主教、しかも「聖公会の至宝」とさえいわれた八代崇主教を偲ぶ文を、私のような不肖の弟子が記すことには内心忸怩たるものを覚えるが、思い出を書こうと思う。
先生は『イギリス宗教改革史研究』(創文社)などを上梓された英国教会史の権威であった。同時に『新カンタベリー物語』(聖公会出版)のような平易な英国教会史も著された。そしてまた、含蓄あることを易しく語り、人を導く牧会者でもあった。説教集『恵みの時、救いの日』(聖公会出版)を読むとそれがよくわかる。1991年、先生と私達はムアマン著『イギリス教会史』(聖公会出版)を刊行したが、これはやはり先生と企画・推進して教文館から刊行した『宗教改革著作集』に続く英国教会史関係の文献の出版だった。『イギリス教会史』の出版は英国教会史の本格的な邦文通史の必要性を説いておられた先生の、永年の願いが実ったものだった。
こんな男に誰がした
先生との思い出は尽きないが、15年ほど前、那須での先生の学部ゼミ合宿をお手伝いした時のことは忘れられない。団欒の時、先生はこんな話をなさった。軍国少年だった自分は敗戦で価値観をすべて否定された。無遅刻・優等の成績だった自分の生活も一変してしまった。コンパ等で無理やり歌わされた時音痴の自分が歌える歌は『星の流れに』くらいで、「こんな女に誰がした」を「こんな男にだれがした」と変えて自嘲的に歌った。自らの身に起こった不運が自らの意志に反したものという思いがあったからだと思う、という話である。それを聞いて私は、こんな偉い先生でもそういう青春があったのかと妙に感激し、一層先生に心酔したことを覚えている。
茶目っ気

写真左: 手術前 頭を丸刈りにされ、両側に花をおいて遺影を意識した?
写真右: 無事、手術を終えて、聖ロカ病院の前で
1988年、先生は聖ロカ国際病院で脳腫瘍と肺の手術を相次いで受けられた。お見舞いに伺った時、病室の前の廊下には数名の警察官がおり物々しい雰囲気だった。手鏡で術後のご自分の頭を覗いている先生に「さすが聖公会の主教は大したものですね」と申し上げると、先生は手鏡を振りながら「違う違う、私じゃない。隣に皇太子妃の母上が入院しておられるんだよ」と茶目っ気たっぷりに言われ、私も納得して「そうですよね、まさかね」とお答えし、二人で大笑いしたこともあった。
愛の反対語
1994年、先生が首座主教に就かれた時、聖公会では女性司祭をめぐる議論が高まっていた。英国聖公会がこれを認める中で、先生は慎重な姿勢を取られ、日本聖公会が動揺するやも知れないこの問題について適切な方向を提示・指導された。
3月17日の告別式の日、志木聖母教会の内陣に先生の遺影を見た時、私は自分がなぜここに居るのかを思い知った。こみあげてくるものを必死で抑えた。3月25日の『聖公会新聞』は、先生は「燃える太陽ではなく、うさぎがその包容力に和んでおモチがつける十五夜の月、闇夜を照らす月光のような存在だった」と書いた。 かつて「こんな男に誰がした」と歌った先生は、ご逝去直前の3月10日付『産経新聞』「語る」欄に
「自分に起こった不運は決して押し付けられたものではなかった。自分を超えた大きな力が支えとなって、いかなる不運をも克服させてくれるものだという確信を得たのです」という言葉を残して去っていかれた。
先生はカンタベリー大主教ウィリアム・テンプルの言葉「愛の反対語は憎しみではない。無関心である」を好んで引用されていた。ランべス会議を来年に控え、さぞご無念であったろう。
告別式から帰った私は、先生の写真をピアノの上の祭壇に置いた。こみあげるものをおさえようとはもう思わなかった。先生はどこまでも暖かな神学博士だったのである。
横浜山手聖公会報「聖塔」1997・5・25より

中村茂先生はご著書「草津『喜びの谷』の物語」
(教文館 2007/10/10 出版)の冒頭に
「この書を故八代崇主教に献げる」と記された。
そして「あとがき」の文中に以下の文を記された。
コンウォール・リーが聖バルナバ・ミッションを展開していたころ、草津は日本聖公会北東京地方部に属していたが、その後の組織改変によって北東京地方部は北関東教区となった。私がコンウォール・リーに邂逅した当時、北関東教区の主教は八代崇師だった。私は八代崇師に邂逅の話をした.そのとき主教は私に「コンウォール・リーは教会の、そして日本の宝です。けれどもほとんど知られていない。研究と顕彰が必要です」と言われた。この言葉を私は、主教が「共に生きる」という精神が失われつつある社会に危惧の念を抱いておられるがゆえの言葉と受けとめた。師はその数年後他界されたから、私にとって師の言葉は遺言になった。本書を八代崇主教に捧げるのは、そのゆえである。
八代師父と山手聖公会
北関東教区主教にして首座主教の八代崇師父が、3月12日、65歳の若さで逝去された。主教は1992年3月15日の大斎節第2主日に、山手聖公会で『変わるものと変わらないもの』と題する講話をして下さった。先生が主教として山手の私達に直接語りかけられたのは、あれが最初で最後だった。
聖公会の至宝・学者・牧会者
聖公会信徒の「師父たちの第一人者」である首座主教、しかも「聖公会の至宝」とさえいわれた八代崇主教を偲ぶ文を、私のような不肖の弟子が記すことには内心忸怩たるものを覚えるが、思い出を書こうと思う。
先生は『イギリス宗教改革史研究』(創文社)などを上梓された英国教会史の権威であった。同時に『新カンタベリー物語』(聖公会出版)のような平易な英国教会史も著された。そしてまた、含蓄あることを易しく語り、人を導く牧会者でもあった。説教集『恵みの時、救いの日』(聖公会出版)を読むとそれがよくわかる。1991年、先生と私達はムアマン著『イギリス教会史』(聖公会出版)を刊行したが、これはやはり先生と企画・推進して教文館から刊行した『宗教改革著作集』に続く英国教会史関係の文献の出版だった。『イギリス教会史』の出版は英国教会史の本格的な邦文通史の必要性を説いておられた先生の、永年の願いが実ったものだった。
こんな男に誰がした
先生との思い出は尽きないが、15年ほど前、那須での先生の学部ゼミ合宿をお手伝いした時のことは忘れられない。団欒の時、先生はこんな話をなさった。軍国少年だった自分は敗戦で価値観をすべて否定された。無遅刻・優等の成績だった自分の生活も一変してしまった。コンパ等で無理やり歌わされた時音痴の自分が歌える歌は『星の流れに』くらいで、「こんな女に誰がした」を「こんな男にだれがした」と変えて自嘲的に歌った。自らの身に起こった不運が自らの意志に反したものという思いがあったからだと思う、という話である。それを聞いて私は、こんな偉い先生でもそういう青春があったのかと妙に感激し、一層先生に心酔したことを覚えている。
茶目っ気


写真左: 手術前 頭を丸刈りにされ、両側に花をおいて遺影を意識した?
写真右: 無事、手術を終えて、聖ロカ病院の前で
1988年、先生は聖ロカ国際病院で脳腫瘍と肺の手術を相次いで受けられた。お見舞いに伺った時、病室の前の廊下には数名の警察官がおり物々しい雰囲気だった。手鏡で術後のご自分の頭を覗いている先生に「さすが聖公会の主教は大したものですね」と申し上げると、先生は手鏡を振りながら「違う違う、私じゃない。隣に皇太子妃の母上が入院しておられるんだよ」と茶目っ気たっぷりに言われ、私も納得して「そうですよね、まさかね」とお答えし、二人で大笑いしたこともあった。
愛の反対語
1994年、先生が首座主教に就かれた時、聖公会では女性司祭をめぐる議論が高まっていた。英国聖公会がこれを認める中で、先生は慎重な姿勢を取られ、日本聖公会が動揺するやも知れないこの問題について適切な方向を提示・指導された。
3月17日の告別式の日、志木聖母教会の内陣に先生の遺影を見た時、私は自分がなぜここに居るのかを思い知った。こみあげてくるものを必死で抑えた。3月25日の『聖公会新聞』は、先生は「燃える太陽ではなく、うさぎがその包容力に和んでおモチがつける十五夜の月、闇夜を照らす月光のような存在だった」と書いた。 かつて「こんな男に誰がした」と歌った先生は、ご逝去直前の3月10日付『産経新聞』「語る」欄に
「自分に起こった不運は決して押し付けられたものではなかった。自分を超えた大きな力が支えとなって、いかなる不運をも克服させてくれるものだという確信を得たのです」という言葉を残して去っていかれた。
先生はカンタベリー大主教ウィリアム・テンプルの言葉「愛の反対語は憎しみではない。無関心である」を好んで引用されていた。ランべス会議を来年に控え、さぞご無念であったろう。
告別式から帰った私は、先生の写真をピアノの上の祭壇に置いた。こみあげるものをおさえようとはもう思わなかった。先生はどこまでも暖かな神学博士だったのである。
横浜山手聖公会報「聖塔」1997・5・25より

中村茂先生はご著書「草津『喜びの谷』の物語」
(教文館 2007/10/10 出版)の冒頭に
「この書を故八代崇主教に献げる」と記された。
そして「あとがき」の文中に以下の文を記された。
コンウォール・リーが聖バルナバ・ミッションを展開していたころ、草津は日本聖公会北東京地方部に属していたが、その後の組織改変によって北東京地方部は北関東教区となった。私がコンウォール・リーに邂逅した当時、北関東教区の主教は八代崇師だった。私は八代崇師に邂逅の話をした.そのとき主教は私に「コンウォール・リーは教会の、そして日本の宝です。けれどもほとんど知られていない。研究と顕彰が必要です」と言われた。この言葉を私は、主教が「共に生きる」という精神が失われつつある社会に危惧の念を抱いておられるがゆえの言葉と受けとめた。師はその数年後他界されたから、私にとって師の言葉は遺言になった。本書を八代崇主教に捧げるのは、そのゆえである。