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追悼八代崇先生

      東松山聖ルカ教会 笠井剛

 八代先生は1931年7月16日生まれで、私は一日遅れの17日生まれ。共通の友人は、一日違いのピンとキリの見本と言い、私は八代さんこそ文字通りの先生だと応えていた。 
  
 先生にまつわる思い出は、どれもこれも笑い出してしまうものばかりだが、今は全て封印することにした。

 この3月16日、大斎節第五主日の説教は、十字架上七語の<わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか>だった。私は説教を聞きながら、八代先生の最後の時を思わずにはいられなかった。きっと大声で痛い苦しいと叫んだに違いないと思ったりした。

 と、あの茶目気をたたえた先生の笑顔が見えて「わたしにかわってイエス様が泣いて下さったのだよ」と私の耳にささやくのだった。どこかで説教と混線していたようだが、私は安堵の気持ちで一杯だった。そして、かけがえのない人を亡くして、初めて、一つの言葉の意味が解ることの哀しさに浸っていた。

 氷雨降るその夜、通夜の祈りが営まれ、祭壇に飾られた花の中に、先生の大きな写真がすっくと立っていた。めったに人前では見せなかった英知を額に、剛毅を顎に刻んで、そしてやはり目と鼻でいつものようにクスッと笑っていた。私は写真の前にいて、先生の優しさと茶目気だけに合わせて、ただはしゃいでいた者にすぎなかったと、率直に詫びるしかなかった。

 翌日、私は予定通り信州への旅に出た。先生が私の都合に合わせてくれたのだと勝手に決めて。旅の日、幾度か春の雪が降り、そのたびキリはピンへ、思いをこめてこんなふうに踊った。

笠井さん偲ぶ会でのスピーチ1


“例えばブランデンブルグ協奏曲第二番 
部屋一杯にボリュウムを上げて踊り出すのだ 
手を振り足を蹴り上げ腰をくねらせて 
ステップを踏んで勝手に 
いってみればたこ踊り 
もっといえば音楽なんかいらない 
ガラス戸に全身写して 
エイ・ホーと気合を入れて踊るのだ 
酒なんか呑むな涙を呑め 
エイ・ホー 
見てみろガラス戸の向こう林の中で 
おれに合わせて踊っているヤツがいる
ヤッ・ホー 
雪まで降り始めたではないか
エイ・ホー
 ヤッ・ホー”

私なりの追悼の仕方だ。


北関東時報「八代主教記念追悼号」より

写真は1997年7月12日「八代先生を偲ぶ会」で思い出を語る笠井氏


註 笠井さんは立教大学職員で、八代崇が学生部長のとき、同じ学生部の課長、
  主人と呑み仲間で、ご夫婦で私たち夫婦の親しい友人でした。

   笠井さんは詩人で、詩集も出しておられます。(y.yash)

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