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教育のよって立つところ

教育のよって立つところ 

 日本のことわざに「百の説法、屁一つ」というのがあります。キリスト教の牧師であり、長年教育に携わってきた人間なので、いつも自戒の言葉として、自分自身に言い聞かせている言葉です。と言うのも「三つ子の魂、百まで」というように、中学のときの思い出がいつまでたっても頭から離れないからです。

 兄・欽一とともに
 昭和一九年の五月のことでした。中学生になったばかりの洟垂れ小僧であった私たちは、ある日、学校の近くの店でアイスキャンデーを買って、立ち食いしていたとろを、運悪く配属将校にみつかって、教員室につれていかれました。どういう理由だったかは忘れましたが、アイスキャンデーを食べてはいけないということになっていたのです。その時わたしたちは、一発ずつ殴られただけで済みましたが、その一月ほどあとで起こったことは、そうは済まなかったのです。

 いつの時代でも学校の先生方は、自分の生徒が何人どういう上級学校に進むかを気にするものとみえて、この配属将校の先生は、何人陸軍幼年学校に入ったかが、最大の関心事だったのでしょう。わたしたちを一人ひとり呼びつけ陸軍幼年学校を受験しろと命じました。わたしはその時なんと答えたか覚えていませんが、ともかく受験しないと言いましたら、とたんに、陸軍中尉どのは、「きさまはアイスキャンデーを食いやがったくせに」と言って、ものすごいげんこつをくらわしてくれました。その上、生徒調査書を見てわたしの父がキリスト教の牧師であることを知っていたためか、「第一ヤソなぞだからそういうことをするんだ」と言って、あとは何発殴られたか分からないぐらい、殴られました。気がついた時には、耳から血が出ていました。

 昭和二〇年八月、戦争は終わりました。九月から学校に戻りましたが、暑い夏だったので、アイスキャンデーを食べようと、とある店に寄ったところ、驚いたことに、アイスキャンデー屋のおやじは、兵庫県立第二中学校に配属されていた元陸軍中尉どのでありました。数日後、悪餓鬼が数人、アイスキャンデー屋に出かけて行って、おやじを外に引きずり出し、さんざん殴りつけました。わたしたちが一箇月の停学処分ですんだのは、元陸軍中尉どのが執りなしてくれたからだったのでしょうか。

 「キリスト教教育」という言葉には「教える」という文字が二つ入っています。「キリスト教」という「教え」に基づいて、教師が生徒を「教える」というわけでしょうか。いわゆる「キリスト教教育」というものが、大した意味をもたないのは、そういう理解によるのではないか、と思います。

 「宗教」という言葉からも分かるように、日本人は「宗教」をもっぱら「教え」として理解してきました。「教え」がつかないのは「神道」だけです。たしかに、キリスト教の教典である旧約、新約聖書を読みますと、「教え」がたくさん出てきます。預言者の教え、イエスの教え、パウロの教え、といった具合にわたしたちは語ります。しかし、第一義的には、キリスト教は教えではないのです。それを端的に物語っているのは、一番古い福音書・マルコの福音書には、それほど「教え」は出てこないという事実です。福音書や使徒たちは、イエスが教えたことに言及はしていますが、わたしたちが救われるのは、イエスを通して行われた神の「救いの出来事」― 生・死・復活 ―によるのだ、ということを口を揃えて主張しています。ということは、イエスが八〇まで生きて、百万言を費やして「教えた」としても、死んで甦らなかったら、「救い主」ではありえなかった、ということです。「キリスト教はキリスト」、あるいは「キリスト教は福音であって宗教ではない」といった表現は、みなこの聖書の主張を言い表しているのです。

 そのようなキリスト教も、この日本では「教え」として受け止められました。幕末から明治初年に入信した日本人の多くが、当時の知的階級の出身であったせいか、キリスト教をもっぱら「教え」として捉えました。しかも、薩長が支配する新しい日本社会に受け入れられなかったような人達が立身出世の手段として、先進「キリスト教」国の「教え」を利用しようとしたふしがあります。立教学院の創設者ウイリアムズから二十二年遅れて、同じヴァジニア神学校を卒業した最初の日本人は、帰国後「キリスト教」という「教え」を「卒業」して、実業家に転身しました。

 わたしは別に「教え」は不必要だとか、「教える」必要はないと言おうとしているのではありません。事実、新約聖書のうちに、すでにイエスの生、死、復活をどのように理解するかをめぐっての論争が始まったのを見いだします。以後のキリスト教の歴史では、神、キリスト、聖霊、教会、サクラメント、等についての理解をめぐって、壮絶な争いを展開し、異端とされた者は、仮借なく弾圧されていきました。「正しく」理解された「正しい」教えを「正しく」教えることが、最大の勤めとされたのです。ただ、皮肉な言い方を許されるならば、「信仰の自由」という近代的な原則が確立するまでは、何が「正しい」教えかを定めたのは政治権力であって、キリスト者の間では、何が「正しい」教えかを、だれが、どのような手続きで決めるかについては、合意は得られませんでした。

 冒頭に「百の説法、屁一つ」といった品の悪い言葉を記しましたが、それは「教え」ることを商売にしている人間が、えてして「教え」たことを実行しない、いな「教え」たことの正反対をやる傾向が強いからです。もちろん、これは日本だけの現象ではないでしょうが、「教える」人を「先生」と崇めたて奉るこの日本では特に顕著だと思われます。文化人、知識人と言われる人ほど、この傾向が強いのではないでしょうか。

 六〇年,七〇年の安保闘争をどのように評価するかは、人それぞれ違うでしょうが、大学にかかわりをもっていた人間として、わたしはいくつか感心させられた出来事を思い出します。その一つは、関西のある大学で「教え」ていた六九年に、折からの全世界的学園紛争の影響もあって、学生たちとの「話し合い」がもたれました。ある著名な先生が、学生に「君たちは幸せだ。革命を自分の目で見られるから」と発言されたのを印象深く聞きました。その数ヵ月後、学生たちが大学を封鎖して、その先生に、さあ革命に一緒に立ち上がりましょう、と言いましたら、その先生は逃げてしまったので、研究室はめちゃくちゃにされました。

 学生も生徒も、先に生まれた人を見て育ちます。こどもが親を見て育つように。しかも生徒たちは、先生が「ことば」で教えることよりも、先生の生き方をじっと見詰めているのです。大検の受検者が激増したということは、知識は学校に行かなくとも、読書やテレビ、放送を通しても得られることを物語っています。学校という場では、先生方との、血の通った、人間的な交わりを通して学生や生徒はなにかをつかみ取ります。生徒たちは、本能的に、先生方が「教える」ことと「行なっている」ことの間に食い違いがないかを発見します。「教育のよって立つところ」とは、「教える」人自身を指しているのです。

 幕末、明治にキリスト教に入信しながら、やがて「キリスト教」という「教え」を「卒業」して行った人々の多かった中で「道」としての、「真理」としての、「命」としてのキリストを証しするために、生涯を異郷で捧げた伝道者たち(わたしの主張から言わせれば「宣教師」とか「布教師」と言うのは感心しませんので)の「教え」ではなく「生きざま」に感動し、自らもそのような証人の生涯を送ろうとした人々もいました。まがりなりにも、キリスト教が今日でも日本に存続しているのは、そういった人達のおかげだと思います。

 イエスは恵まれなかった人々の友であったから、わたしたちも小さい者、弱い者、抑圧されている人々に連帯して、助けなければならない、といったことをキリスト者はよく言います。問題は、その奉仕の業を、総てをなげうって、生涯やるかということではないでしょうか。

 コーンウオール・リー IMG
        草津慰主教会

 わたしの管轄している北関東教区には草津聖慰主教会という教会があります。これは、五〇を過ぎてからハンセン病患者への伝道を志したコーンウォール・リーというイギリス人女性が始めた働きが実って生まれた教会です。家族、友人、すべての人に見捨てられ、薬効著しいという噂を信じて草津にやってきた患者たちに、奉仕の手を差し伸べたのは、難しいことを「教える」先生ではありませんでした。カッコよく天下国家を論じ、社会の矛盾、不平等を論駁はするものの、自らは高額の給料を得ていて、退職後は一般人には縁遠い退職金と年金生活を期待する「文化人、知識人」でもありませんでした。むしろ、イギリスでの財産を処分して、患者たちのために住む家をつくったのが、コーンウォール・リー女史でした。高齢のため、兵庫県明石に移り住んだ彼女は、昭和一六年一二月一八日、米英との戦争が始まって一〇日目、異郷の地日本で地上での生涯を終えました。敵国人として死去した彼女の葬儀に、皇太后からの花が届けられたことをどう理解したらよいのでしょうか。

 元陸軍中尉を寄ってたかって殴りつけたあの暑い夏からもう四十五年の歳月が過ぎました。その後、自分自身が教師のはしくれになったせいもあって、いつまでも心の痛む思いがします。ヤコブは「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっと厳しいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」(ヤコブの手紙 3・1)と申しています。
(冒頭の写真は崇、中一の頃、7歳年上の兄、欽一とともに)

           立教学院院長 八代崇 (新座だより No.42 1991. 4. 4)


参照:草津「喜びの谷」の物語
    コンウォール・リーとハンセン病  中村 茂 著  教文館 2027年10月10日 初版

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