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孤独者イエス

孤独者イエス



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本日から大斎節に入りました。教会は昔から復活日を迎える準備の季節として、大斎四十日を祈りと断食による克己の期間と定めて守ってきました。この四十日という期間が福音書に記されている主イエスの荒れ野における四十日四十夜の試みに倣ったものであることは言うまでもありません。

私たちは家祷会、勉強会、その他の催しを通して、あるいは個人的に何かを断ったりしてこの準備の期間を過ごします。もちろん人それぞれ、大斎の期間、達成しようとする目標は違うでしょうが、私自身は、大斎を、人間というものがまったく孤独な存在であることを考える期間だと思います。





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今年の大学入試も昨日で終わりましたが、最後の試験は普通の問題と違って小論文で合否を判定する試験でした。今年の題は「あなた、またはあなたの家族の社会生活において、自他の共同性を成り立たせている基盤について論ぜよ」というものでした。

さて、論文を読んでいて感じたことは、やはり日本という国は義理人情の国、個人ではなく集団がすべてを規定している国だなということでした。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」といわれるこの国ではみんながやらないことをするのはこわいのです。みんなが大学へ行くから自分も行く。会社訪問ではみんなが紺の背広を着るから自分も着る。普段のジーパン、長髪スタイルでは行かない。「和をもって貴し」とするこの国では、他人と違った行動や生き方をする個性的な人間はのけ者にされやすい。義理人情といったものは、集団が優先するこうした社会の潤滑油の働きをしているのだと思います。



IMG-0203.jpg受験生のうち何人かが、「人という字は二つの棒が支えあっている。人間はお互いに支え合わなければならない。そこに共同性を成り立たせている基盤がある」と書いていました。結婚式での祝辞を聞いているようで感心はしたが、なにか「おんぶにだっこ」の甘えの構造を見せつけられたような気がしました。


人間は、よく考えてみれば、最終的には一人ぼっちなのです。生まれてきたときも一人、死んでいくとも一人。血のつながりといっても、ここ数日、テレビ、新聞で報じられている中国孤児の人たちの姿をみていると、「血は水よりも濃し」などとは言えないと思います。あの孤児たちの多くは、肉親を見い出すことができず、再び中国へ戻っていくことでしょう。自分を生んだ父母、自分の兄弟姉妹を知ることもなく、あとの生涯を送ることになるでしょう。




IMG-0207.jpg 最終的には人間は一人ぼっちで孤独だということは、多くの人が旧約聖書のヨブを引き合いに出して語ってきました。しかし、人間が本当に孤独な存在であることを示してくれたのは主イエスでした。キリストの公生涯は四十日四十夜の荒れ野における試みで始まります。まったくの一人ぼっちです。そしてその公生涯はたった一人ぼっち、ゴルゴタの十字架の上で終わりを告げます。



弟子たちは関わりを恐れてすべて逃げ去ってしまいました。それは、義理も人情も、甘えも、連帯、思いやり、私たちがふだんカッコよく使うような言葉が何一つ適用しない絶望的な孤独の瞬間でした。そして主は詩編二二篇の言葉で叫ばれます。
「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいし」と。



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私は中学生の頃、この言葉をめぐって友人と論争し、これは、「神様、あなたはわたしを見捨てるようなことはありませんね」という期待の言葉だと言い張ったことを思い出します。しかし、これはやはり、絶望の叫び、敗北の叫びです。神にみすてられた呪いの叫びです。そこにある神は、入学試験に合格させてくれる神でもなければ、家内安全、商売繁盛を保証してくれる神でもありません。孤独の淵、絶望の谷間にいて呼びかけても応えてくれない神なのです。


この人間の世の中には、連帯感だとか、思いやりだとか、、配慮、善意など、そういった歯の浮くような人間の思いではどうにもならないことがあるのです。先程、中国の孤児の話をしましたが、テレビを見ながらふと思いました。私がそんな極限状態におかれたら、どうしただろうかと。そこで考えます。だから戦争はいけないんだと。しかし戦時中に戦争反対を叫び得た人間が、果たしてどのくらいいたでしょうか。



志木聖母定礎・祝別式縮小
大斎は、人間がまったく孤独な存在であることを考える期間だと申しました。その孤独の極致に十字架を見るのです。だれも助けてくれない。だれも慰めてくれない。だれも支えてくれない。だれも連帯しようなんて言ってくれない。だれも代わってくれない。神にさえ見捨てられる……それが十字架です。  
しかし、キリスト教がただそれだけであれば、キリスト教など無用の長物以外の何ものでもありません。
福音がわれわれに示すのは、十字架上の孤独と絶望が勝利だったということです。絶望に至る孤独を貫徹したとき、神は栄光の甦りを与えられたのです。

孤独の極致、十字架の上で、絶望の叫びを上げられた方の絶望がわれわれの絶望を希望に変え、その方の不信がわれわれの不信を信仰に変えます。もしわれわれが他者のために何かを為し得るとすれば、それは孤独のうちに死に給うたキリストの絶望を勝利に変えられた神の力によるのです。

孤独でしかあり得ないわれわれをして、他の人々との関わりを持たせるために、孤独のうちに死に給うたキリストに思いを馳せる、それが大斎という季節に、われわれが祈りをもってなすべきことではないでしょうか。

(1982年2月24日 聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂における説教)
文中に詩編の句が多く引用されていましたが、省略いたしました。

写真上から:
1.脳腫瘍摘出後間もなく聖路加国際病院にて(1988年1月に脳腫瘍摘出手術、5月に検査のため再入院した時。鯉のぼりが見える)
2..立教新座キャンパス
3.志木聖母教会 (在任中に建てられた教会 同時に付属の高層住宅セントジョンズハウス志木が建設された)
4.同上聖堂内部 (セントジョンズハウス内の主教邸で1997年3月12日帰天。この聖堂で通夜・葬儀が行われた)
5.崇・中学生の頃
6.志木聖母教会定礎式(1991年)
         
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