結婚式

1957年6月12日、デニソン大学を無事卒業した二日後私たちはシカゴで結婚式を挙げた。崇はヴァージニア神学校の二年で卒業まであと一年あった。
今思い返せば、グルー基金の奨学生を終えた私が先に日本へ帰国し、彼の卒業を待って結婚式を挙げること、または私がどこか他の大学院で勉学しながら彼の卒業を待つことも選択肢として考えられた。
だが、当時の私達にとって、日本は地の果てのように遠いところだった。オハイオとヴァージニアでさえ遠く感じたのに、これ以上離れて暮らすことは考えられなかった。私が大学院に行くとしても学費、生活費などの奨学金を得ることはかなり厳しかった。両親に負担をかけることを避けたい気持ちも強かった。
シカゴで結婚式を挙げることができたのは、崇がシカゴで知り合った先輩や友人たちのおかげだった。結婚式のあと、和やかな披露パーティーを開いてくださった。

その当時を思い出して彼が北関東教区の機関紙「やこぶのいど」に記した文「最高に人間的な行為」を抜粋をさせていただく。
以下、八代崇による文章
「信じる」ということは、決して反理性的、反科学的なことではありません。最高に人間的な行為、それが「信じる」ということです。人間は、本当のところ明日のことも、今ここでは絶対的確実性をもっては言えないのです。
中略
9月1日に娘が結婚しました。そこで思い出したのは、もう34年前になるわたしたちの結婚式のことです。式はシカゴの聖ペテロ教会というところで行い、立会人には当時まだシカゴ大学で勉強されていた西山千明先生、司式は北川三夫先生、補式は私の一年先輩で、牧師になりたての日系二世、林ジョージという人でした。この林さんが文語祈祷書の約束の言葉をわたしたちにそれぞれ尋ねたのですが、何しろ初めてなのであがってしまっていました。「なんじこの女をめとり、神の定めに従いて夫婦の神聖なる縁を結ぶことを願うか。」そこで彼は口を閉じてしまい、肩で息をしました。こちらも初めてなのであがっていたのでしょう。てっきり質問はこれでおしまいと思って、「我これを願う」と答えました。すると林先生はあわててあとの言葉を読み上げました。
「又これを愛し、これを慰め、これを敬い、健やかなる時も病める時もこれを守り、その命の限りほかの者に依らず、この女のみにそうことを願うか」そこでわたしはもう一度大きな声で「我これを願う」と答えました。式のあとみんな笑って二度も願ったら、確かだよな、と言っていました。

職業がら、わたしもよく結婚式を司式しましたが、たしかに二度願った人はいませんでした。ただ、牧師に約束したあと新郎・新婦が互いに言う誓いの言葉は、大変な「信仰告白」で、結婚式でなかったら、とてもしらふの時に、正気で言える言葉ではないということです。
「今よりのち幸いにも災いにも、富にも貧しきにも、健やかなる時も病める時も、なんじを愛し、なんじを守り、生涯なんじを保つべし。われ今これを約す。」
人間は明日のこともわからないのに、生涯を見据えて、今この時点で約束する。「愛するだろう」ではなくて「愛するのだ」と言い切っています。おそらくわたしたちの信仰告白でこれ以上「信仰的」な告白はないと思います。
後略
写真上:後列左から北川三夫司祭、私の親代わりをつとめてくださった杉本夫妻、若い林ジョージ牧師。
写真は古いセピア色のものばかりですが、現代のパソコン技術で少し修正できました。