運命の出会い 4

アメリカ留学3年を経て初めて手に入れた車でデニソンに来た彼はその車の中で私に告白をしたのだった。おんぼろの中古の車であっても、そこは二人にとって最も適した場所であった。キャンパスのどこに、大学町グランヴィルのどこに、これ以上の場所があっただろうか?
日暮れになれば外から車内は見えないし、何を話しているのか誰にも聞こえない。二人だけの親密な世界がそこに生まれる。
写真左:ケニヨン郊外のプライベート飛行場

うぶな私にはとても対応できないせっかちなプロポーズをなんとかかわして、その翌日から始まった春休みに私はイリノイ州のノックス・カレッジに月井さんを訪ねた。
月井さんがデニソンに私を訪ねて来た時、2,3泊滞在したのは、かつてビルマ(ミャンマー)で宣教師として過ごされた老夫妻の家だった。ノックスで私を泊めて下さったご家族もそのような宣教師の家だったと記憶する。
建国の時からキリスト教・プロテスタント精神に溢れた、米国の宣教師たちは老後の生活においても海外、特に貧しい東洋の国々からきた留学生の世話を積極的にされていた。

前号で掲載した崇からの第4の手紙は、月井さん気付けでノックスまで私を追ってきた。月井さんは3月の初デートの時一緒だったので、彼を知っていた。二人ともお喋りなので良く話がはずんでいた。「とてもいい人ね」と彼女はほめていた。
月井さんもノックスに短期留学していた男性とやがて付き合い始め、私たちはシカゴで一緒に食事やテニスを楽しんだ事もある。余談だが、彼等は結婚まで至らなかった。彼は京大出身でさる大手の会社から派遣されて勉学にきていた。50代の若さで病死し、月井さんも癌で69歳で世を去った。人生とは何とはかないものだろう。

ノックスで月井さんと楽しい時を過ごした後、崇が強く勧めたシカゴへ行った。シカゴは全米2位の大都市で日系人や日本からの留学生が多い。
一年近く日本人のいない小さなカレッジタウンで過ごし、ようやくアメリカに慣れて、ホームシックも忘れたころに、日本人グループに温かく迎えられほっとした気分に浸ることができた。崇が紹介してくれた西山さんは立教大学卒後、シカゴ大学で博士号を取得して立大教授となられた。その当時勉学中だったシカゴ大学で出会った女性、茂子さんと結婚され、私たちとも親しくお付き合いすることになる。
春休みが終わるとやがて学年末試験があり、6月早々長い夏の休暇に入る。学期末試験や論文書きに追われながらも、崇は毎週末やってきた。
色々な催しがあるとケニヨンへ私を連れて行き、週末を過ごした。女子学生が泊れる宿舎があり、食事も学生食堂でとれる。昼間は近くに自転車でピクニックにでかけ、テニスもよくやった。

夜はダンスパーティーがあり、彼の友人の何人かとも踊って楽しかった。社交ダンスなど初めてだったが、音楽にのればなんとかなるものだ。終わった時、「踊り過ぎて足が痛いわ」と崇に言ったら、突如、私を抱き上げ3階のホールから1階まで階段を降りたのにはびっくりした。「男ってこんなに力持ちなんだ」と内心思い、まんざら悪い気持ちはしなかった。
そうこうするうちに出会いから2カ月半が過ぎ、自然に気持ちが通じ合うようになっていった。その後過ごした夏休みに「運命の出会い」はクライマックスに達することになる。

アメリカ留学3年を経て初めて手に入れた車でデニソンに来た彼はその車の中で私に告白をしたのだった。おんぼろの中古の車であっても、そこは二人にとって最も適した場所であった。キャンパスのどこに、大学町グランヴィルのどこに、これ以上の場所があっただろうか?
日暮れになれば外から車内は見えないし、何を話しているのか誰にも聞こえない。二人だけの親密な世界がそこに生まれる。
写真左:ケニヨン郊外のプライベート飛行場

うぶな私にはとても対応できないせっかちなプロポーズをなんとかかわして、その翌日から始まった春休みに私はイリノイ州のノックス・カレッジに月井さんを訪ねた。
月井さんがデニソンに私を訪ねて来た時、2,3泊滞在したのは、かつてビルマ(ミャンマー)で宣教師として過ごされた老夫妻の家だった。ノックスで私を泊めて下さったご家族もそのような宣教師の家だったと記憶する。
建国の時からキリスト教・プロテスタント精神に溢れた、米国の宣教師たちは老後の生活においても海外、特に貧しい東洋の国々からきた留学生の世話を積極的にされていた。

前号で掲載した崇からの第4の手紙は、月井さん気付けでノックスまで私を追ってきた。月井さんは3月の初デートの時一緒だったので、彼を知っていた。二人ともお喋りなので良く話がはずんでいた。「とてもいい人ね」と彼女はほめていた。
月井さんもノックスに短期留学していた男性とやがて付き合い始め、私たちはシカゴで一緒に食事やテニスを楽しんだ事もある。余談だが、彼等は結婚まで至らなかった。彼は京大出身でさる大手の会社から派遣されて勉学にきていた。50代の若さで病死し、月井さんも癌で69歳で世を去った。人生とは何とはかないものだろう。

ノックスで月井さんと楽しい時を過ごした後、崇が強く勧めたシカゴへ行った。シカゴは全米2位の大都市で日系人や日本からの留学生が多い。
一年近く日本人のいない小さなカレッジタウンで過ごし、ようやくアメリカに慣れて、ホームシックも忘れたころに、日本人グループに温かく迎えられほっとした気分に浸ることができた。崇が紹介してくれた西山さんは立教大学卒後、シカゴ大学で博士号を取得して立大教授となられた。その当時勉学中だったシカゴ大学で出会った女性、茂子さんと結婚され、私たちとも親しくお付き合いすることになる。
春休みが終わるとやがて学年末試験があり、6月早々長い夏の休暇に入る。学期末試験や論文書きに追われながらも、崇は毎週末やってきた。
色々な催しがあるとケニヨンへ私を連れて行き、週末を過ごした。女子学生が泊れる宿舎があり、食事も学生食堂でとれる。昼間は近くに自転車でピクニックにでかけ、テニスもよくやった。

夜はダンスパーティーがあり、彼の友人の何人かとも踊って楽しかった。社交ダンスなど初めてだったが、音楽にのればなんとかなるものだ。終わった時、「踊り過ぎて足が痛いわ」と崇に言ったら、突如、私を抱き上げ3階のホールから1階まで階段を降りたのにはびっくりした。「男ってこんなに力持ちなんだ」と内心思い、まんざら悪い気持ちはしなかった。
そうこうするうちに出会いから2カ月半が過ぎ、自然に気持ちが通じ合うようになっていった。その後過ごした夏休みに「運命の出会い」はクライマックスに達することになる。