夢の留学
クリスマスの思い出
アメリカに留学した最初の年、1953年のクリスマス休暇を、私は青山学院高等部でお世話になった若い女性宣教師、メアリー・ステアレットの住むオハイオ州北部の小都市、アクロンで過ごすことにした。同じアクロン市に、メアリーを通して紹介され、文通していたペンパルが住んでいて、彼女の家にも泊めてもらうことになっていた。
日本で留学が決定した時、留学先の大学として、最終的にペンシルバニア州のスワ―スモアとオハイオ州デニソン大学のどちらかを選ぶことになった時、迷った上、デニソンを選んだのは、今になって思えば、親しかったメアリーの出身地が同じオハイオ州だったことに惹かれたのかもしれない。
デニソンのあるオハイオ州南部のグランヴィルからアクロンまで列車かバスを乗り継いで行こうと思っていたが、運良くアクロンから自家用車で来ている学生が見つかり、ほかの三人と一緒に便乗させてもらうことになった。
雪の降りしきる中を、五,六時間かかってアクロンに着いた時は夜もふけていた。道中、車に酔ってしまって困った。ホームシックならぬカ―シック。うまく、眠る事が出来て助かった。その夜は車に乗せてくれた学生の家に泊めてもらった。感謝祭の時のみじめなホームシックのことを思えば、大胆さも身について、アメリカ留学生活も板について来たものだ。
その家の目の前に小さな湖があった。翌朝、空は晴れ渡り一面氷の張った湖面はきらきら輝いている。スケート靴を借り、垣根のない庭から湖面に降り立ち、滑った。何という快感!スケートは初体験だったが、すぐに滑れるようになったのが、今思えば不思議だ。

やがてメアリー・ステアレットが迎えにきてくれた。彼女は一人娘で、両親と三人暮らしだった。父親はタイヤ・メーカーの大手、ファイアストンに勤める技術者で、質素な生活をしていた。でも、娘は大学卒業後すぐに英語教師兼宣教師として日本に派遣される道を選んだ、敬虔なメソジスト教会信徒の家庭である。
(左の写真: 1991年に主人崇がケニヨンで名誉学位を授与された時、駆けつけて下さったメアリーご夫妻。すでに成人した男子を三人育てられていた。留学当時、私は写真を撮る習慣が無く、メアリーの写真もなかったので、これを使わせて頂きました。)
(右下の写真: ケニヨンまで来て下さったメアリーご夫妻の車で、アクロンのご自宅に私たち夫婦を連れて行って,泊めて下さり、あちこち案内して下さった時の写真。いずれも、写真が趣味だった主人崇が撮影したものです)

クリスマス・イヴの晩祷には、メアリーが、私の見聞を広めるためにと、バプティストの黒人会衆の教会へ連れて行ってくれた。百人ほどの老若男女が集まっていた。キング牧師の黒人差別撤廃運動が高まり新公民権法が成立するのは、十一年後の1964年のことである。
黒人は声量があり、聖歌隊のプロセッションは足取りもゆったりと、力強く堂々たるものだった。黒人牧師の捧げる自由祈祷の叫び声が印象に残っている。メアリーは白人だが、この教会にも知り合いがいるらしく、何人かに紹介してくれた。皆、愛想がよかった。
夜道をドライヴして帰る途中、中流層の人々が住む住宅街を通った。敷地はたっぷりあるが、垣根も門も塀もない開放的な家並みは、屋根も庭も雪で覆われて、各家の前庭や入り口のポーチ、通りに面した部屋の窓には競うように美しいイルミネーションの飾りつけがしてある。

その夜、ペンパルのバーバラの家へ連れて行ってもらった。どっしりした体格の両親とバーバラ、中学生の弟と、赤ん坊の弟のにぎやかな五人家族だ。広い居間の一角に大きなクリスマス・ツリーが据えられ、飾り付けられている。そしてツリーを囲んで、床に色とりどりのプレゼントの包みがおかれている。
家族がそれぞれプレゼントを贈り合うのが慣わしだ。バーバラは父親と母親、弟二人そして私にも、プレゼントを買って、置いてあった。 クリスマスの朝、皆でプレゼントを開いて大喜びし合う。セーターとかバッグとかちょっとした物だが、いつも家族が何を欲しがっているか、気を配っているのがよくわかる。
プロテスタントの教会へ家族全員で連れ立って行った。帽子をかぶり、ハイヒールをはき、きちんとした服装をして行く。二百人以上の信徒が来ている。
礼拝が終わると、バーバラ一家の顔見知りの何人かに紹介され、メリー・クリスマスの挨拶を交わす。一人一人が出口で牧師と握手し、「お説教が素晴らしかったわ」などと言葉を交わして教会を出る。出口での牧師による見送りはどの教会でも見られる風景だ。教会で祝会などはなく、家庭で祝うのが習慣だ。(写真左上:バーバラの弟を抱く私)

家に着くとクリスマスのディナーが始まる。前日から準備されたご馳走の数々が食卓に並ぶ。詰め物がたっぷり入ったロースト・ターキーにクランベリー・ソースが添えられ、野菜の付け合せ、サラダ、パン、etc. 父親がターキーを切り分け、「ダーク・ミート、オア、ホワイト?」と七面鳥の肉の部分の好みを聞いたりしながら、それぞれのお皿に配る。
ディナーに親戚や友人が招かれる場合もあり、食後のデザートとコーヒー、紅茶の時間になってから、知り合いがやってくる場合もある。そしてお喋りに花が咲く。
私が体験した五十年代のアメリカは世界大戦に勝ち、自信に満ちあふれた,富める大国だった。人々はおおらかで、明るく、敗戦国からやってきた元敵国の一留学生の私を温かく迎え入れてくれた。(写真右上:母親のピアノ伴奏に合わせて歌うバーバラと私)
アメリカは移民によって成り立った多民族国家である。歴史を二,三百年さかのぼれば、政治的、宗教的、経済的圧迫から逃れ、新天地に夢を求めてはるばるやってきた人々、奴隷として無理やり連れてこられた人々もいる。
複雑で多様な大国、アメリカ社会の中で、東洋の小国から来た「井の中の蛙」だった私は, その後、多くのことを学び、体験していくことになる。
クリスマスの思い出
アメリカに留学した最初の年、1953年のクリスマス休暇を、私は青山学院高等部でお世話になった若い女性宣教師、メアリー・ステアレットの住むオハイオ州北部の小都市、アクロンで過ごすことにした。同じアクロン市に、メアリーを通して紹介され、文通していたペンパルが住んでいて、彼女の家にも泊めてもらうことになっていた。
日本で留学が決定した時、留学先の大学として、最終的にペンシルバニア州のスワ―スモアとオハイオ州デニソン大学のどちらかを選ぶことになった時、迷った上、デニソンを選んだのは、今になって思えば、親しかったメアリーの出身地が同じオハイオ州だったことに惹かれたのかもしれない。
デニソンのあるオハイオ州南部のグランヴィルからアクロンまで列車かバスを乗り継いで行こうと思っていたが、運良くアクロンから自家用車で来ている学生が見つかり、ほかの三人と一緒に便乗させてもらうことになった。
雪の降りしきる中を、五,六時間かかってアクロンに着いた時は夜もふけていた。道中、車に酔ってしまって困った。ホームシックならぬカ―シック。うまく、眠る事が出来て助かった。その夜は車に乗せてくれた学生の家に泊めてもらった。感謝祭の時のみじめなホームシックのことを思えば、大胆さも身について、アメリカ留学生活も板について来たものだ。
その家の目の前に小さな湖があった。翌朝、空は晴れ渡り一面氷の張った湖面はきらきら輝いている。スケート靴を借り、垣根のない庭から湖面に降り立ち、滑った。何という快感!スケートは初体験だったが、すぐに滑れるようになったのが、今思えば不思議だ。

やがてメアリー・ステアレットが迎えにきてくれた。彼女は一人娘で、両親と三人暮らしだった。父親はタイヤ・メーカーの大手、ファイアストンに勤める技術者で、質素な生活をしていた。でも、娘は大学卒業後すぐに英語教師兼宣教師として日本に派遣される道を選んだ、敬虔なメソジスト教会信徒の家庭である。
(左の写真: 1991年に主人崇がケニヨンで名誉学位を授与された時、駆けつけて下さったメアリーご夫妻。すでに成人した男子を三人育てられていた。留学当時、私は写真を撮る習慣が無く、メアリーの写真もなかったので、これを使わせて頂きました。)
(右下の写真: ケニヨンまで来て下さったメアリーご夫妻の車で、アクロンのご自宅に私たち夫婦を連れて行って,泊めて下さり、あちこち案内して下さった時の写真。いずれも、写真が趣味だった主人崇が撮影したものです)

クリスマス・イヴの晩祷には、メアリーが、私の見聞を広めるためにと、バプティストの黒人会衆の教会へ連れて行ってくれた。百人ほどの老若男女が集まっていた。キング牧師の黒人差別撤廃運動が高まり新公民権法が成立するのは、十一年後の1964年のことである。
黒人は声量があり、聖歌隊のプロセッションは足取りもゆったりと、力強く堂々たるものだった。黒人牧師の捧げる自由祈祷の叫び声が印象に残っている。メアリーは白人だが、この教会にも知り合いがいるらしく、何人かに紹介してくれた。皆、愛想がよかった。
夜道をドライヴして帰る途中、中流層の人々が住む住宅街を通った。敷地はたっぷりあるが、垣根も門も塀もない開放的な家並みは、屋根も庭も雪で覆われて、各家の前庭や入り口のポーチ、通りに面した部屋の窓には競うように美しいイルミネーションの飾りつけがしてある。

その夜、ペンパルのバーバラの家へ連れて行ってもらった。どっしりした体格の両親とバーバラ、中学生の弟と、赤ん坊の弟のにぎやかな五人家族だ。広い居間の一角に大きなクリスマス・ツリーが据えられ、飾り付けられている。そしてツリーを囲んで、床に色とりどりのプレゼントの包みがおかれている。
家族がそれぞれプレゼントを贈り合うのが慣わしだ。バーバラは父親と母親、弟二人そして私にも、プレゼントを買って、置いてあった。 クリスマスの朝、皆でプレゼントを開いて大喜びし合う。セーターとかバッグとかちょっとした物だが、いつも家族が何を欲しがっているか、気を配っているのがよくわかる。
プロテスタントの教会へ家族全員で連れ立って行った。帽子をかぶり、ハイヒールをはき、きちんとした服装をして行く。二百人以上の信徒が来ている。
礼拝が終わると、バーバラ一家の顔見知りの何人かに紹介され、メリー・クリスマスの挨拶を交わす。一人一人が出口で牧師と握手し、「お説教が素晴らしかったわ」などと言葉を交わして教会を出る。出口での牧師による見送りはどの教会でも見られる風景だ。教会で祝会などはなく、家庭で祝うのが習慣だ。(写真左上:バーバラの弟を抱く私)

家に着くとクリスマスのディナーが始まる。前日から準備されたご馳走の数々が食卓に並ぶ。詰め物がたっぷり入ったロースト・ターキーにクランベリー・ソースが添えられ、野菜の付け合せ、サラダ、パン、etc. 父親がターキーを切り分け、「ダーク・ミート、オア、ホワイト?」と七面鳥の肉の部分の好みを聞いたりしながら、それぞれのお皿に配る。
ディナーに親戚や友人が招かれる場合もあり、食後のデザートとコーヒー、紅茶の時間になってから、知り合いがやってくる場合もある。そしてお喋りに花が咲く。
私が体験した五十年代のアメリカは世界大戦に勝ち、自信に満ちあふれた,富める大国だった。人々はおおらかで、明るく、敗戦国からやってきた元敵国の一留学生の私を温かく迎え入れてくれた。(写真右上:母親のピアノ伴奏に合わせて歌うバーバラと私)
アメリカは移民によって成り立った多民族国家である。歴史を二,三百年さかのぼれば、政治的、宗教的、経済的圧迫から逃れ、新天地に夢を求めてはるばるやってきた人々、奴隷として無理やり連れてこられた人々もいる。
複雑で多様な大国、アメリカ社会の中で、東洋の小国から来た「井の中の蛙」だった私は, その後、多くのことを学び、体験していくことになる。