夢の留学 7
大学生活始まる
デニソン大学には中上流階級以上の家庭の子女が、オハイオ州をはじめ、主として東部、中西部の各州から来ていた。ルームメートのジェーン・アーヴ以外のフレッシュマン(新入学生)の多くも、日本人の私に好意を示してくれた。顔を合わせれば「ハーイ!ヨーコ」と必ず名前を呼び、笑顔で話しかけてくる。明るく大らかな女子学生達だった。こちらは多数の顔と名前を覚えることからして大変だった。
1950年代の米国民は第二次世界大戦の戦勝国であることの誇りと自信に満ち溢れていた。経済的にも世界一の超大国で、当時の敗戦国の日本とは比べものにならなかった。しかし底抜けに明るい女学生に親切にされて、私は日本人として劣等感を抱いたり、みじめな思いをしたことは一度もなかった。男子学生の寮などでは、アルコールでも入れば、「真珠湾を忘れるな」「ジャップ!」などと罵倒が飛ぶこともあったと後に聞いたが、私にとって初めてのキャンパス生活は温室のように温かく安泰だった。
食堂は新入生の三つの寄宿舎の近くにあった。朝食は七時からカフェテリア方式で、ジュース、シリアル、卵料理にベーコン、ハム、ソーセージ、パン、コーヒー、紅茶等の中から選ぶセルフサービス。昼食はスープとグラタンなどの一品料理とデザート、飲み物。夜のディナーはスープ、ローストビーフやステーキなどの肉料理(金曜は魚料理)、と野菜の付け合わせ、サラダ、デザート、コーヒー、紅茶等。ランチとディナーにはウェイター(学生アルバイトもいた)がつき、「セカンド?」とお代わりを聞いて回るのだが、私はかつて食べたことのないほどのご馳走と量の多さに、パンやデザートにさえ手がつけられないこともあった。丸いテーブルに、5,6人が自由に席を取り会話を楽しみながら頂く。お喋り好きが多く、会話が絶えることはない。私に話しかけられた時は返事ができたが、皆でワイワイやっているときは聞きとるのが、最初の2,3ヶ月は、やっとだった。
初めての感謝祭の休暇
先にも触れたが、最初の感謝祭(11月第4木曜日に始まる)休暇を私は車で一時間ほどのコロンバス(オハイオ州都)に住むルームメートのジェーンの家で過ごすことにしていた。休暇の始まる日になると学生たちの親が自家用車で迎えに来る場合が多い。(男子学生は車をキャンパスに乗り入れることが許されていたと思う)新学期になって3ヵ月ぶりに家に帰れるということで、女の子たちは前日からはしゃいでいた。
突然私の中で何かが崩れた。涙がこみ上げ、溢れでた。私はベッドに泣き伏してしまった。初めてのホームシックだった。心の中で張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったのだ。休暇の前日に授業をさぼるとその科目の単位を落とすというペナルティーがあることさえ知らなかった。最後の授業に出られる状態ではなかった。ルームメートのジェーンをはじめ、周囲にいた女子学生たちはさぞ、驚き慌てただろうと思うが、私は常軌を逸していたので彼女達がどのような行動に出たか判らなかったし、後になっても話題にはされなかった。フレッシュマン・イングリッシュを担当していた親切な女性教授のはからいで単位を落とさずに済んだのは幸いだった。

ミセス・スタークというこの初老の教授のことを私は忘れることはできない。この事件の後、デニソン滞在中よく、食事やお茶に招かれた。物静かな夫は大学教授であり大学チャペルの専属オルガニストで、コロラド州デンバーの山荘にご自身でパイプオルガンを作製されていた。
急性のホームシック患者をジェーンの家族は温かく迎えてくれた。とりわけ母親は私を気遣って「日本では朝食に何を食べるの?」と聞く。私は日本食が恋しくてホームシックになったのではない。キャンパスの豪華な食事には満足していた。日本の朝食をジェーンの母親が用意できるとは到底思わなかったが、好意を断る口上も思いつかず、「ご飯と生卵」と言ってみたら、本当に翌朝それが私の前に出されたのだ。その後、私を市街のデパートに連れて行き、寒い冬に備えてセーター、ジーパン、ワンピース、手袋、マフラーなどを買ってくれた。ジェーンの実家はごくありふれた家庭で、妹三人と弟一人がいた。真面目そうな父親は乳製品の大手、ボーデン社に勤めていた。日曜日には教会に一家で出席し、帰途、家族でレストランに入り、食事をした。 三泊四日、ジェーンの家で家族同様に過ごさせて頂き、再びデニソンに帰る頃にはホームシックは完全に治っていた。
写真上:ミセス・スタークと左から洋子、韓国人留学生、ドイツ人留学生
写真下:ミセス・スタークご夫妻
大学生活始まる
デニソン大学には中上流階級以上の家庭の子女が、オハイオ州をはじめ、主として東部、中西部の各州から来ていた。ルームメートのジェーン・アーヴ以外のフレッシュマン(新入学生)の多くも、日本人の私に好意を示してくれた。顔を合わせれば「ハーイ!ヨーコ」と必ず名前を呼び、笑顔で話しかけてくる。明るく大らかな女子学生達だった。こちらは多数の顔と名前を覚えることからして大変だった。
1950年代の米国民は第二次世界大戦の戦勝国であることの誇りと自信に満ち溢れていた。経済的にも世界一の超大国で、当時の敗戦国の日本とは比べものにならなかった。しかし底抜けに明るい女学生に親切にされて、私は日本人として劣等感を抱いたり、みじめな思いをしたことは一度もなかった。男子学生の寮などでは、アルコールでも入れば、「真珠湾を忘れるな」「ジャップ!」などと罵倒が飛ぶこともあったと後に聞いたが、私にとって初めてのキャンパス生活は温室のように温かく安泰だった。
食堂は新入生の三つの寄宿舎の近くにあった。朝食は七時からカフェテリア方式で、ジュース、シリアル、卵料理にベーコン、ハム、ソーセージ、パン、コーヒー、紅茶等の中から選ぶセルフサービス。昼食はスープとグラタンなどの一品料理とデザート、飲み物。夜のディナーはスープ、ローストビーフやステーキなどの肉料理(金曜は魚料理)、と野菜の付け合わせ、サラダ、デザート、コーヒー、紅茶等。ランチとディナーにはウェイター(学生アルバイトもいた)がつき、「セカンド?」とお代わりを聞いて回るのだが、私はかつて食べたことのないほどのご馳走と量の多さに、パンやデザートにさえ手がつけられないこともあった。丸いテーブルに、5,6人が自由に席を取り会話を楽しみながら頂く。お喋り好きが多く、会話が絶えることはない。私に話しかけられた時は返事ができたが、皆でワイワイやっているときは聞きとるのが、最初の2,3ヶ月は、やっとだった。

初めての感謝祭の休暇
先にも触れたが、最初の感謝祭(11月第4木曜日に始まる)休暇を私は車で一時間ほどのコロンバス(オハイオ州都)に住むルームメートのジェーンの家で過ごすことにしていた。休暇の始まる日になると学生たちの親が自家用車で迎えに来る場合が多い。(男子学生は車をキャンパスに乗り入れることが許されていたと思う)新学期になって3ヵ月ぶりに家に帰れるということで、女の子たちは前日からはしゃいでいた。
突然私の中で何かが崩れた。涙がこみ上げ、溢れでた。私はベッドに泣き伏してしまった。初めてのホームシックだった。心の中で張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったのだ。休暇の前日に授業をさぼるとその科目の単位を落とすというペナルティーがあることさえ知らなかった。最後の授業に出られる状態ではなかった。ルームメートのジェーンをはじめ、周囲にいた女子学生たちはさぞ、驚き慌てただろうと思うが、私は常軌を逸していたので彼女達がどのような行動に出たか判らなかったし、後になっても話題にはされなかった。フレッシュマン・イングリッシュを担当していた親切な女性教授のはからいで単位を落とさずに済んだのは幸いだった。

ミセス・スタークというこの初老の教授のことを私は忘れることはできない。この事件の後、デニソン滞在中よく、食事やお茶に招かれた。物静かな夫は大学教授であり大学チャペルの専属オルガニストで、コロラド州デンバーの山荘にご自身でパイプオルガンを作製されていた。
急性のホームシック患者をジェーンの家族は温かく迎えてくれた。とりわけ母親は私を気遣って「日本では朝食に何を食べるの?」と聞く。私は日本食が恋しくてホームシックになったのではない。キャンパスの豪華な食事には満足していた。日本の朝食をジェーンの母親が用意できるとは到底思わなかったが、好意を断る口上も思いつかず、「ご飯と生卵」と言ってみたら、本当に翌朝それが私の前に出されたのだ。その後、私を市街のデパートに連れて行き、寒い冬に備えてセーター、ジーパン、ワンピース、手袋、マフラーなどを買ってくれた。ジェーンの実家はごくありふれた家庭で、妹三人と弟一人がいた。真面目そうな父親は乳製品の大手、ボーデン社に勤めていた。日曜日には教会に一家で出席し、帰途、家族でレストランに入り、食事をした。 三泊四日、ジェーンの家で家族同様に過ごさせて頂き、再びデニソンに帰る頃にはホームシックは完全に治っていた。
写真上:ミセス・スタークと左から洋子、韓国人留学生、ドイツ人留学生
写真下:ミセス・スタークご夫妻