大陸横断鉄道の旅 八代洋子
グルー基金が手配してくれた人たちの案内で、サンフランシスコに一泊し、翌日は少し市内見物をした後大陸横断鉄道に乗り込んだ。(写真:サンフランシスコ市街の坂道を登り下りするストリートバス)

寝台車ではなく普通席だった。座席は硬かったが、幅広くゆったりしていた。女二人が進行方向に向かって座り、向かい合って男二人が腰かけた。自由席でいくつも空いた席はあったのだが・・・夜になると4人は向かい合った座席のお互いの隙間に足を乗せて眠った。
シカゴまで3泊4日の車中、昼夜ぶっ続け同じ席で向かい合って、われわれは何を語り合っていたのか、あまり記憶に残っていない。

実は高校を卒業した後、4人はアメリカのカレッジ入学準備のため、4月から7月迄、新設されたばかりのICU(国際キリスト教大学)に特待生として入れていただき、アメリカ人教授の授業を受ける機会を与えられていた。三鷹の駅からバスに乗ってかなりの距離を行かねばならなかったが、それはとても楽しい時間だった。少人数のクラスで一般教養の授業がネイティブの教授により英語で行われ、クラスの皆と仲良くなる中で、4人はお互いの気心を知ることになっていた。未知の体験に挑もうとする同志の気分になっていた。写真右:広々としたICUのキャンパスで散策する4人。右から伊藤、入江、田中(旧姓月井)、八代(旧姓久山)
男性二人は目的とする学問分野がほぼ、決まっていた。成蹊高校出身の入江さんの希望科目は歴史で船中でも車内でも、よく読書をしていた。学習院出身の伊藤さんは物理か数学を目指していた。実は東京大学の理科一類にも合格していたのだ。7月まで東大教養学部に在籍していたが、留学の道を選んだのだった。彼はいつも辞書を持っていて、何かあるとすぐに、調べていた。私は彼を〝字引″とあだ名をつけて呼んだりした。女性二人は文科系だったが、進路をまだはっきり決めていなかった。東洋英和出身の月井さんは、偶然だが私と目黒区立八雲国民学校で同級だった。グルー奨学金の応募は一校につき一人(男女共学校であれば一人づつ)に限られていたので、同じ中学、高校に進学していたら、このような結果にはならなかった。私の人生の中での不思議な巡り合わせの一つである。

食事は列車内にワゴンで運ばれて来たものの中から選んで、買って食べたり、駅に停車すると時間が十分あることを確かめて列車を降り、駅の小さな店で飲み物やホットドッグなどを買ったこともある。
列車には朝鮮戦争の休戦で帰国の途にあった米兵が何人か乗り込んでいて、話しかけてきた。日本人妻がいるというGIと親しくなり、駅に降りて一緒に町へでたこともあった。
(写真上:大陸横断鉄道)

車窓には大西部の砂漠地帯、灌木地帯、ロッキー山岳地帯と続き、広大なアメリカに驚嘆した。カリフォルニア、ネバダ、ユタ、コロラド、ネブラスカ、アイオワ、それぞれの州の面積が日本本州より大きいと思われる六州を越えて、ミシガン湖に臨むイリノイ州のシカゴ、アメリカ第二の都市に着いた。前もって同行の留学生、吉田さんが連絡して下さっていた日本人留学生と彼の友人のアメリカ人女子学生の出迎えを受け、少しの間レストランで過ごした後、彼らと別れ、ニューヨーク行きの列車に乗り継いだ。この時お世話になった日本人留学生は、吉田さんのいとこにあたる寺内さんと言う方で、やがて私の夫となる八代と知り合いであることが後に分かった。
(写真右:ミシガン湖畔の大都市シカゴ)
グルー基金が手配してくれた人たちの案内で、サンフランシスコに一泊し、翌日は少し市内見物をした後大陸横断鉄道に乗り込んだ。(写真:サンフランシスコ市街の坂道を登り下りするストリートバス)

寝台車ではなく普通席だった。座席は硬かったが、幅広くゆったりしていた。女二人が進行方向に向かって座り、向かい合って男二人が腰かけた。自由席でいくつも空いた席はあったのだが・・・夜になると4人は向かい合った座席のお互いの隙間に足を乗せて眠った。
シカゴまで3泊4日の車中、昼夜ぶっ続け同じ席で向かい合って、われわれは何を語り合っていたのか、あまり記憶に残っていない。

実は高校を卒業した後、4人はアメリカのカレッジ入学準備のため、4月から7月迄、新設されたばかりのICU(国際キリスト教大学)に特待生として入れていただき、アメリカ人教授の授業を受ける機会を与えられていた。三鷹の駅からバスに乗ってかなりの距離を行かねばならなかったが、それはとても楽しい時間だった。少人数のクラスで一般教養の授業がネイティブの教授により英語で行われ、クラスの皆と仲良くなる中で、4人はお互いの気心を知ることになっていた。未知の体験に挑もうとする同志の気分になっていた。写真右:広々としたICUのキャンパスで散策する4人。右から伊藤、入江、田中(旧姓月井)、八代(旧姓久山)
男性二人は目的とする学問分野がほぼ、決まっていた。成蹊高校出身の入江さんの希望科目は歴史で船中でも車内でも、よく読書をしていた。学習院出身の伊藤さんは物理か数学を目指していた。実は東京大学の理科一類にも合格していたのだ。7月まで東大教養学部に在籍していたが、留学の道を選んだのだった。彼はいつも辞書を持っていて、何かあるとすぐに、調べていた。私は彼を〝字引″とあだ名をつけて呼んだりした。女性二人は文科系だったが、進路をまだはっきり決めていなかった。東洋英和出身の月井さんは、偶然だが私と目黒区立八雲国民学校で同級だった。グルー奨学金の応募は一校につき一人(男女共学校であれば一人づつ)に限られていたので、同じ中学、高校に進学していたら、このような結果にはならなかった。私の人生の中での不思議な巡り合わせの一つである。

食事は列車内にワゴンで運ばれて来たものの中から選んで、買って食べたり、駅に停車すると時間が十分あることを確かめて列車を降り、駅の小さな店で飲み物やホットドッグなどを買ったこともある。
列車には朝鮮戦争の休戦で帰国の途にあった米兵が何人か乗り込んでいて、話しかけてきた。日本人妻がいるというGIと親しくなり、駅に降りて一緒に町へでたこともあった。
(写真上:大陸横断鉄道)

車窓には大西部の砂漠地帯、灌木地帯、ロッキー山岳地帯と続き、広大なアメリカに驚嘆した。カリフォルニア、ネバダ、ユタ、コロラド、ネブラスカ、アイオワ、それぞれの州の面積が日本本州より大きいと思われる六州を越えて、ミシガン湖に臨むイリノイ州のシカゴ、アメリカ第二の都市に着いた。前もって同行の留学生、吉田さんが連絡して下さっていた日本人留学生と彼の友人のアメリカ人女子学生の出迎えを受け、少しの間レストランで過ごした後、彼らと別れ、ニューヨーク行きの列車に乗り継いだ。この時お世話になった日本人留学生は、吉田さんのいとこにあたる寺内さんと言う方で、やがて私の夫となる八代と知り合いであることが後に分かった。
(写真右:ミシガン湖畔の大都市シカゴ)