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夢の留学 2

グルー基金留学生に選抜される      八代洋子

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 太平洋戦争勃発直前まで駐日大使だったジョセフ・C・グルーという外交官がおられた。日本滞在中の日記に基づく彼の著書「滞日十年」が1944年に米国で出版されてベストセラーになった。日本でも戦後の1948年に邦訳され、やはりベストセラーのリストに載った。グルー大使はその著書の印税のすべてを日本再生のための社会事業に寄付したいと、親交のあった旧友の樺山愛輔伯爵(当時、日米協会会長、84歳)に申し出た。樺山翁は印税の五百万円をもとに、当時の吉田茂首相、一万田尚登日銀総裁をはじめとする政界、財界、実業界の名士に募金を呼びかけ、グルー基金を発足させた。
 
その使途についてはほかにもいくつか候補が挙がったが、樺山翁は自分が十五歳という若さでアメリカ留学を経験して、それが有意義だったことから、国際感覚を身につける上でも、大学卒業生ではなく、高校卒業生をアメリカのリベラル・アーツ・カレッジに留学させる資金として使用することを強く主張し、グルー大使の了解を得てグルー奨学金を実現させた。ちなみに、樺山翁はご自分の愛娘も大正13年に14歳でアメリカの寄宿制の女学校に留学させている。金融恐慌の影響で、大学進学はあきらめたが、後に随筆家として名を成した白州正子さん(夫は終戦直後活躍した白州次郎氏)である。

写真左上:ジョセフ C.グルー大使 (1880~1965)

写真右:晩年の樺山愛輔伯爵  大磯邸の庭にて
kabayama aisuke 縮小



 リベラル・アーツ・カレッジは、大学院へ進学する前に一般教養を広く身につけさせることを主な目的として、最初の2年間に、理科系、文科系、社会学系、芸術系、体育系からそれぞれ何単位か取ることを義務付け、後半の2年に自分の専攻科目を集中して取るというシステムになっている。ハーバード、イエール、プリンストン、スタンフォード、コロンビアなど、日本で知られた有名大学は大学院レベルで主要な大学である。一方、リベラル・アーツ・カレッジは全学生数も数百名から1千名程と規模も小さく全寮制である。寮生活を通じて学生同士が親密になり、授業も少人数で、教師は出席している学生のすべてを把握でき、活発に質疑応答が交わされる。
 
青山学院高等部の3年生になっていた私は、夏休みが始まる前にグルー奨学金の話を担任の先生から聞いた。留学のチャンスがあるなんて夢のようだった。

Mineo高等部部長・スラバヤ丸
写真左:出航前日スラバヤ丸まで送りに来て下さった方々の一部
 前列右から二人目が峰尾高等部部長、3人目が私

メソジスト系(戦中に日本基督教団に合同)のミッション・スクールの青山学院にはアメリカから数名の宣教師がいて、英語を教えておられた。戦時中米国に帰還を強いられたが、戦後すぐに戻られた年配の宣教師に加えて、大学新卒の宣教師として派遣された若い方々がいた。授業で英会話を教えて下さったが、私たちは年令の近い彼女たちと親しくなり自宅に遊びに行ったり、教会での活動をともにしたりして仲良くなった。

戦時中の国民学校では、「鬼畜米英」と称して恐ろしい国の人々だと教え込まれ、みじめな敗戦を体験していたのが、実際に接するアメリカ人はとても明るい、優しい人々だった。こんな人々のいる国へのあこがれが、いつの間にか私の心を膨らませていたのだと思う。

夢見がちで、想像の世界に浸ることを楽しみとしていた文学少女の私はこの留学の話に飛びつき、家に帰って両親に相談した。開口一番、父は「だめだ」と言った。戦時中海軍技術将校で、無口な父はすぐに理由を言わなかったが、今の私なら父の反対がよくわかる。あまりにも無謀だった。18歳の世間知らずの娘である。
幸いなことに、当時の高等部の部長峰尾先生がグルー奨学生の選考委員の一人になっていて、父に事情をよく説明して下さった。学費を始めとして、生活費、往復の旅費、お小遣いまで支給され、行く先は全寮制の名門校から選ぶという、この上なく恵まれた条件だった。

 もう一人私の味方がいた。内務省の元官僚だった母方の祖父ですでに80歳で第一線からは引退していた。「これからの時代、女だって留学ぐらいしておいたほうがいい」という意見だった。
 
 幸運が重なって、1952年の12月、私はグルー奨学金第一期生として、全国の優良高校校長の推薦を経て応募してきた何百人の中から、合格者4人(男女2人づつ)の一人に選ばれたのだった。
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