西洋オバサンの思い出 八代崇

私と西洋オバサン、ミス・リーとの付き合いは、私がまだ満一歳になる前から始まりました。昭和六年七月十六日に神戸聖ヨハネ教会牧師館で生まれた私は、神戸聖ミカエル教会への父の転勤によって、すでにS・P・Gの宣教師として松蔭女学校とミカエル教会で働いておられたミス・リーと出会うことになったからです。
といっても、小学校に入るまでは、ミス・リーのことは何も覚えていません。はっきりと思い出すことが出来るのは、毎週火曜日にミス・リーが父のために持参したサンドイッチを弟たちとパクついたことです。聖餐式に出席した人たちは、終わった後牧師館で朝食をとったのですが、食い盛りの悪童三人がアッという間に手を出して、父が食べるはずのサンドイッチを頂戴したのです。
やがて戦争が始まりましたが、ミス・リーは帰国することができず、私たちと同じく、食糧難や米軍による空襲の恐怖のもとで四年間、絶えず憲兵の厳しい監視と日本人の冷たい視線のもとで過ごさなければならなかったミス・リーの苦労は想像に余りあります。

昭和二十五年四月、立教大学に在籍していた私は突然退学して神戸に戻ってきました。
父は別に咎めるわけでもなく、ただ松蔭短大と聖ミカエル国際学校で、ミス・リーについて勉強しろと命じました。翌年八月に私は渡米することになりましたが、この一年ぐらいミス・リーからいろいろ親しく学ぶことが出来た年月はありません。
もっとも、悪いこともしました。同じく松蔭に籍を置いていたものの、キリスト教については何にもまだ分かっていなかった大石吉郎君をそそのかして、ミス・リーにとって答えにくいような質問をさせました。「リー先生。割礼というのは何ですか。どういう具合にするのですか。」ミス・リーはこわい顔をして、大石君ではなく、私の方をにらみつけました。
昭和三十三年七月、アメリカ留学を終えた私は、妻を連れて帰国しましたが、ミス・リーは私を聖ミカエル国際学校のチャプレンに、妻を教師にしてくれました。もっとも、私たちはまもなく京都教区の八木基督教会に赴任しましたので、また疎遠になりました。ある年私が八木で伝道集会をするから来てくれないかと頼みますと二つ返事で引き受けてくれ、神戸から国電、近鉄を乗り継いで、八木まで来てくれました。
昭和四十五年九月に入ると父の病状が悪化しました。八木から毎日訪問というわけにはいきませんでしたが、行くたびに、ミス・リーが父の病床に立っていて、訪問客に挨拶をしていました。
その西洋オバサンも翌年帰英中に病を得、帰らぬ人となってしまいました。何一つ恩返しが出来なかったことを申し訳なく思っています。


写真:中央右 立教大学を自主退学した頃の崇
下の二枚:ミスリーの葬送・告別式が行われた、英国ロンドン近郊、バンステッドの諸聖徒教会(ミス・リーの母教会)
ミス・リーの墓地
洋玉蘭の香るレディー「想い出のミス・リー」に寄稿した文
1996年9月16日発行
編集・発行者:「想い出のミス・リー」出版発起人

私と西洋オバサン、ミス・リーとの付き合いは、私がまだ満一歳になる前から始まりました。昭和六年七月十六日に神戸聖ヨハネ教会牧師館で生まれた私は、神戸聖ミカエル教会への父の転勤によって、すでにS・P・Gの宣教師として松蔭女学校とミカエル教会で働いておられたミス・リーと出会うことになったからです。
といっても、小学校に入るまでは、ミス・リーのことは何も覚えていません。はっきりと思い出すことが出来るのは、毎週火曜日にミス・リーが父のために持参したサンドイッチを弟たちとパクついたことです。聖餐式に出席した人たちは、終わった後牧師館で朝食をとったのですが、食い盛りの悪童三人がアッという間に手を出して、父が食べるはずのサンドイッチを頂戴したのです。
やがて戦争が始まりましたが、ミス・リーは帰国することができず、私たちと同じく、食糧難や米軍による空襲の恐怖のもとで四年間、絶えず憲兵の厳しい監視と日本人の冷たい視線のもとで過ごさなければならなかったミス・リーの苦労は想像に余りあります。

昭和二十五年四月、立教大学に在籍していた私は突然退学して神戸に戻ってきました。
父は別に咎めるわけでもなく、ただ松蔭短大と聖ミカエル国際学校で、ミス・リーについて勉強しろと命じました。翌年八月に私は渡米することになりましたが、この一年ぐらいミス・リーからいろいろ親しく学ぶことが出来た年月はありません。
もっとも、悪いこともしました。同じく松蔭に籍を置いていたものの、キリスト教については何にもまだ分かっていなかった大石吉郎君をそそのかして、ミス・リーにとって答えにくいような質問をさせました。「リー先生。割礼というのは何ですか。どういう具合にするのですか。」ミス・リーはこわい顔をして、大石君ではなく、私の方をにらみつけました。
昭和三十三年七月、アメリカ留学を終えた私は、妻を連れて帰国しましたが、ミス・リーは私を聖ミカエル国際学校のチャプレンに、妻を教師にしてくれました。もっとも、私たちはまもなく京都教区の八木基督教会に赴任しましたので、また疎遠になりました。ある年私が八木で伝道集会をするから来てくれないかと頼みますと二つ返事で引き受けてくれ、神戸から国電、近鉄を乗り継いで、八木まで来てくれました。
昭和四十五年九月に入ると父の病状が悪化しました。八木から毎日訪問というわけにはいきませんでしたが、行くたびに、ミス・リーが父の病床に立っていて、訪問客に挨拶をしていました。
その西洋オバサンも翌年帰英中に病を得、帰らぬ人となってしまいました。何一つ恩返しが出来なかったことを申し訳なく思っています。


写真:中央右 立教大学を自主退学した頃の崇
下の二枚:ミスリーの葬送・告別式が行われた、英国ロンドン近郊、バンステッドの諸聖徒教会(ミス・リーの母教会)
ミス・リーの墓地
洋玉蘭の香るレディー「想い出のミス・リー」に寄稿した文
1996年9月16日発行
編集・発行者:「想い出のミス・リー」出版発起人