八代斌助主教逝去(1970年10月10日)に際しミス・リーによる追悼の言葉
八代主教様の思い出 レオノラ・E・リー

八代主教様が、はじめて神戸聖ミカエル教会の牧師におなりになって以来、最後に入院なさった三十三日の間も、四十年にわたって覚え書きやメッセージを書き取る仕事を仰せつかって参りましたことは、私にとって最大の光栄でありました。この長い年月の間、主教様がどれほどの困難に直面なさり、どんな風にしてそれを克服なさってきたか、また、ご自分と接触する人々を愛し、この国を愛していらっしゃったことなどについて外国の方々に証しするための仕事をさせていただきましたことを誇りに思っております。
主教様が、幼・少年時代や、英国人主教の下での青年牧師時代には、どれ位貧乏な暮らしをなさっていたか、神戸の大水害の時深い水の中を歩いて教会員の家庭をどのようにお助けになったか、六週間も監獄に入れられていた外国人牧師を助け、戦時体制下で苦しめられていた外国人たちを信徒・未信徒の別なく救いの手を伸べて下さったこと、友達に裏切られ、刑事に尾行されながらも、どんな風に教会合同の問題と直面なさったか、警察に召喚され、その尋問に対してどのように立ち向かいなさったか、どのようにして三分の二の教会をお救いなさったのか、その上、戦争が終わった時、どれほどの苦労をもってこれらの教会の間の和解を実現なさったか、またこの国の福音宣教のために、焼失した教会やキリスト教学校をどんな風に再建なさったか、また、どれ位多くの人々やその家族のために仕事を与えていらっしゃったか、あるいは学校の先生たちとの連日の徹夜団交にどんな態度でお臨みになったか、また、今日の教育制度を批判し、悩み、不満を抱いている若者たちに対して、どれだけ深い同情をお示しになっていたか、こうしたすべてのことを、どんな大きな愛と、勇気と、忍耐、理解をもって克服なさってきたか、ということを詳細に亘って私はお話することができるのです。

私が英国において、教会や学校で八代主教様のことを語るとき、主教様を彷彿たらしめる二つの日本語を教えました。主教様は、何か困難なことや挑戦に出会われた時には、腕まくりをして、「よしっ」とおしゃいました。また、誰かが悲しみや苦悩を携えてきたときには、「よし、よし」と言いながら全力を尽くして救いの手を伸べて下さいました。英国の子どもたちは、これらの日本語が好きになりましたし、彼らの生命的な理解力によって、言葉を超えて、主教様の人柄に接することが出来たのであります。
主教様はまた祈りの人でもありました。義母あい子様は、人々の寝静まった真夜中に、主教様が机に向かって坐し、書物を読み、祈り、泣き、ときにはうめいていらっしゃったことをしばしばごらんになったとのことです。主教様は入院なさった時も、同じように、ご自分のためではなく、他の人々のために、しばしば泣きながら、あるいは呻きながら、祈りを捧げていらっしゃいました。
入院中の主教様のもとへたくさんの人たちが訪問されました。主教様は、この人たちとの友情のゆえに神様に感謝され、臆病な人に対しては、その人が主にあって強められるように、信仰を失いつつある人のために、その人がより良いクリスチャンになるように、自分のことだけを考えて他人への愛を失いかけている人のためには、神様の深い愛しみがその人の心のうちに溢れるようにお祈りになりました。また、キリスト教のABCも理解していないが故に自分の立身出世だけを考えている人や、個々の人々を助けることを忘れていたくせに、会議に参加したり、肩書きが増えたりすることを願ったりする聖職の来訪に際しては、神がこれらの方々の心の目を開いて霊魂の救済に努力する人とならしめ給うようにお祈りになりました。
主教様は、病床において、海外のお友達が会議や大会でスローガンの採択や声明の発表にエネルギーを消耗することを止めて、その時間と労力を神の子、イエス・キリストの御心を伝えることに専念すべきだ、と書き送るようにおっしゃいました。
今、神様は、主教様をお膝もとにお召しになりました。私どもにはどうしてなのか理解することは出来ません。けれども、私どもが知り得ますことは、主教様の御心を受け継ぎ、お残し下さった仕事を続けて行くことであり、神様の全能を信じ、主が人類を救うために、この世に降りたもうことを信ずることであります。私どもは、神が八代主教様を私どもにお遣わしになったことを感謝しつつ、主教様がその生涯を通じて示そうとなさった愛と勇気とを模範とし、私たち自身が、他の人々に奉仕することによって、この感謝の気持ちを表さねばなりません。私どもの敬愛してやまない主教様の言葉のように、「よしっ」と「よし、よし」と言いながらお互いに頑張りましょう。
藤間繁義訳・1971年3月14日 発行「聖ミカエル教会報大斎特集号」より
写真:左上 八代斌助主教主宰の「ミカエルの友」最終号の表紙
右 その当時のミス・リー
八代主教様の思い出 レオノラ・E・リー

八代主教様が、はじめて神戸聖ミカエル教会の牧師におなりになって以来、最後に入院なさった三十三日の間も、四十年にわたって覚え書きやメッセージを書き取る仕事を仰せつかって参りましたことは、私にとって最大の光栄でありました。この長い年月の間、主教様がどれほどの困難に直面なさり、どんな風にしてそれを克服なさってきたか、また、ご自分と接触する人々を愛し、この国を愛していらっしゃったことなどについて外国の方々に証しするための仕事をさせていただきましたことを誇りに思っております。
主教様が、幼・少年時代や、英国人主教の下での青年牧師時代には、どれ位貧乏な暮らしをなさっていたか、神戸の大水害の時深い水の中を歩いて教会員の家庭をどのようにお助けになったか、六週間も監獄に入れられていた外国人牧師を助け、戦時体制下で苦しめられていた外国人たちを信徒・未信徒の別なく救いの手を伸べて下さったこと、友達に裏切られ、刑事に尾行されながらも、どんな風に教会合同の問題と直面なさったか、警察に召喚され、その尋問に対してどのように立ち向かいなさったか、どのようにして三分の二の教会をお救いなさったのか、その上、戦争が終わった時、どれほどの苦労をもってこれらの教会の間の和解を実現なさったか、またこの国の福音宣教のために、焼失した教会やキリスト教学校をどんな風に再建なさったか、また、どれ位多くの人々やその家族のために仕事を与えていらっしゃったか、あるいは学校の先生たちとの連日の徹夜団交にどんな態度でお臨みになったか、また、今日の教育制度を批判し、悩み、不満を抱いている若者たちに対して、どれだけ深い同情をお示しになっていたか、こうしたすべてのことを、どんな大きな愛と、勇気と、忍耐、理解をもって克服なさってきたか、ということを詳細に亘って私はお話することができるのです。

私が英国において、教会や学校で八代主教様のことを語るとき、主教様を彷彿たらしめる二つの日本語を教えました。主教様は、何か困難なことや挑戦に出会われた時には、腕まくりをして、「よしっ」とおしゃいました。また、誰かが悲しみや苦悩を携えてきたときには、「よし、よし」と言いながら全力を尽くして救いの手を伸べて下さいました。英国の子どもたちは、これらの日本語が好きになりましたし、彼らの生命的な理解力によって、言葉を超えて、主教様の人柄に接することが出来たのであります。
主教様はまた祈りの人でもありました。義母あい子様は、人々の寝静まった真夜中に、主教様が机に向かって坐し、書物を読み、祈り、泣き、ときにはうめいていらっしゃったことをしばしばごらんになったとのことです。主教様は入院なさった時も、同じように、ご自分のためではなく、他の人々のために、しばしば泣きながら、あるいは呻きながら、祈りを捧げていらっしゃいました。
入院中の主教様のもとへたくさんの人たちが訪問されました。主教様は、この人たちとの友情のゆえに神様に感謝され、臆病な人に対しては、その人が主にあって強められるように、信仰を失いつつある人のために、その人がより良いクリスチャンになるように、自分のことだけを考えて他人への愛を失いかけている人のためには、神様の深い愛しみがその人の心のうちに溢れるようにお祈りになりました。また、キリスト教のABCも理解していないが故に自分の立身出世だけを考えている人や、個々の人々を助けることを忘れていたくせに、会議に参加したり、肩書きが増えたりすることを願ったりする聖職の来訪に際しては、神がこれらの方々の心の目を開いて霊魂の救済に努力する人とならしめ給うようにお祈りになりました。
主教様は、病床において、海外のお友達が会議や大会でスローガンの採択や声明の発表にエネルギーを消耗することを止めて、その時間と労力を神の子、イエス・キリストの御心を伝えることに専念すべきだ、と書き送るようにおっしゃいました。
今、神様は、主教様をお膝もとにお召しになりました。私どもにはどうしてなのか理解することは出来ません。けれども、私どもが知り得ますことは、主教様の御心を受け継ぎ、お残し下さった仕事を続けて行くことであり、神様の全能を信じ、主が人類を救うために、この世に降りたもうことを信ずることであります。私どもは、神が八代主教様を私どもにお遣わしになったことを感謝しつつ、主教様がその生涯を通じて示そうとなさった愛と勇気とを模範とし、私たち自身が、他の人々に奉仕することによって、この感謝の気持ちを表さねばなりません。私どもの敬愛してやまない主教様の言葉のように、「よしっ」と「よし、よし」と言いながらお互いに頑張りましょう。
藤間繁義訳・1971年3月14日 発行「聖ミカエル教会報大斎特集号」より
写真:左上 八代斌助主教主宰の「ミカエルの友」最終号の表紙
右 その当時のミス・リー