ミス・リーの思い出 「一枚の写真」
八代崇

手元に一枚の色あせた写真があります。写っているのは外国人のご婦人と、彼女に抱かれた男の赤ん坊(筆者)です。
外国人のご婦人は、日本での女子教育のために生涯を捧げたミス・レオノラ・リーという英国の宣教師です。二歳のおりに宣教師であった父親とともに来日したミス・リーは、戦時中も日本に留まった人でした。
ミス・リーは日本と日本人を愛することにかけては、だれにも負けない人でしたが、その愛は盲目的、無批判的であったわけではありません。
おそらく、彼女は日本人以上に日本と日本人の悪い面、弱い点も知っていたに違いありません。それをいやと言うほど知らされたのが、戦時中の体験であったのでしょう。
第二次大戦が始まると、英米人は交換船でそれぞれの母国に帰ることになりました。英国に帰る船に乗ろうとしたミス・リーは、国籍は英国でも出生地がカナダだから、米国に戻る船に乗れということでした。米国への交換船が来たので乗ろうとしたら、今度は国籍が英国だから、載せるわけにはいかないということでした。
やむなく、敵国人でありながら、ミス・リーは戦時中の四年間を神戸で過ごし、向う三軒両隣りのご婦人たちと一緒に、防空頭巾、もんぺ姿で、消火訓練に励みました。
戦争という異常事態に直面したとき、人間はどんなに変わるものであるかということを身をもって知らされたのも、この四年間のことでした。
ある時、神戸の市電に乗ったら、知り合いのクリスチャンに出会ったので声をかけようとしました。するとその人は見知らぬ外人に話しかけられて迷惑だとばかりにプイと横を向いて、次の停留所でそそくさと降りていったということです。
日本人のあるがままを理解し、受け入れようとしたのが、彼女の生涯だったのです。
1996 11月11日 産経新聞夕刊の連載コラムに「一枚の写真」と題して書いた記事
(崇本人死去の4か月前)
レオノア・エディス・リー先生の略歴

1896年(明治29年)3月30日、カナダ、ニューグラスゴー、ノバスコティアにて英国C.M.S.(教会宣教協会)宣教師、アーサー・リー(後に九州教区監督)と母の数学教師メアリ・リー)の長女として誕生
1898年(明治31年)両親と共に来日、東京、岐阜、福岡などに滞在。
1912年(明治45年)英国に渡り、チェルテンハム女子大学で学び、ロンドン大学の学位を取得。専攻はフランス語、倫理学、哲学。卒業後カナダ・トロントの高校で教師となる。
1927年(昭和2年)S.P.G.(福音伝道協会)の宣教師となり、来日、松蔭高等女学校に赴任。
1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発。帰国せず終戦まで神戸に留まる。
1946年(昭和21年)在神外国人子弟のため、八代斌助主教と共に聖ミカエル国際学校を設立、校長に就任。松蔭女子専門学校、松蔭短期大学専任教授、神戸大学、神戸外国語大学などで教鞭をとる。
1951年(昭和26年)松蔭短期大学第二代学長に就任。
1967年(昭和42年)教育功労者として兵庫県国際文化章受章
1969年(昭和44年)明治百年祭にあたり日本国政府より勲四等瑞宝章受章。
1971年(昭和46年)10月28日、英国ロンドン郊外、クリストファーホスピスにて逝去。
11月2日、バンステッドの諸聖徒教会で葬送式が行われ、同教会墓地に埋葬。享年75歳。
画像:贈られた花・胡蝶蘭は崇の撮影による
八代崇

手元に一枚の色あせた写真があります。写っているのは外国人のご婦人と、彼女に抱かれた男の赤ん坊(筆者)です。
外国人のご婦人は、日本での女子教育のために生涯を捧げたミス・レオノラ・リーという英国の宣教師です。二歳のおりに宣教師であった父親とともに来日したミス・リーは、戦時中も日本に留まった人でした。
ミス・リーは日本と日本人を愛することにかけては、だれにも負けない人でしたが、その愛は盲目的、無批判的であったわけではありません。
おそらく、彼女は日本人以上に日本と日本人の悪い面、弱い点も知っていたに違いありません。それをいやと言うほど知らされたのが、戦時中の体験であったのでしょう。
第二次大戦が始まると、英米人は交換船でそれぞれの母国に帰ることになりました。英国に帰る船に乗ろうとしたミス・リーは、国籍は英国でも出生地がカナダだから、米国に戻る船に乗れということでした。米国への交換船が来たので乗ろうとしたら、今度は国籍が英国だから、載せるわけにはいかないということでした。
やむなく、敵国人でありながら、ミス・リーは戦時中の四年間を神戸で過ごし、向う三軒両隣りのご婦人たちと一緒に、防空頭巾、もんぺ姿で、消火訓練に励みました。
戦争という異常事態に直面したとき、人間はどんなに変わるものであるかということを身をもって知らされたのも、この四年間のことでした。
ある時、神戸の市電に乗ったら、知り合いのクリスチャンに出会ったので声をかけようとしました。するとその人は見知らぬ外人に話しかけられて迷惑だとばかりにプイと横を向いて、次の停留所でそそくさと降りていったということです。
日本人のあるがままを理解し、受け入れようとしたのが、彼女の生涯だったのです。
1996 11月11日 産経新聞夕刊の連載コラムに「一枚の写真」と題して書いた記事
(崇本人死去の4か月前)
レオノア・エディス・リー先生の略歴

1896年(明治29年)3月30日、カナダ、ニューグラスゴー、ノバスコティアにて英国C.M.S.(教会宣教協会)宣教師、アーサー・リー(後に九州教区監督)と母の数学教師メアリ・リー)の長女として誕生
1898年(明治31年)両親と共に来日、東京、岐阜、福岡などに滞在。
1912年(明治45年)英国に渡り、チェルテンハム女子大学で学び、ロンドン大学の学位を取得。専攻はフランス語、倫理学、哲学。卒業後カナダ・トロントの高校で教師となる。
1927年(昭和2年)S.P.G.(福音伝道協会)の宣教師となり、来日、松蔭高等女学校に赴任。
1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発。帰国せず終戦まで神戸に留まる。
1946年(昭和21年)在神外国人子弟のため、八代斌助主教と共に聖ミカエル国際学校を設立、校長に就任。松蔭女子専門学校、松蔭短期大学専任教授、神戸大学、神戸外国語大学などで教鞭をとる。
1951年(昭和26年)松蔭短期大学第二代学長に就任。
1967年(昭和42年)教育功労者として兵庫県国際文化章受章
1969年(昭和44年)明治百年祭にあたり日本国政府より勲四等瑞宝章受章。
1971年(昭和46年)10月28日、英国ロンドン郊外、クリストファーホスピスにて逝去。
11月2日、バンステッドの諸聖徒教会で葬送式が行われ、同教会墓地に埋葬。享年75歳。
画像:贈られた花・胡蝶蘭は崇の撮影による