サンタ・クロースさん 八代崇

先月、神戸教区のある教会で、幼稚園の父母会に話を頼まれたので、「人間というものは、天使であった幼児がだんだんと天使らしさを失っていくものである」という持論を述べました。話が終わったところで、いつごろから天使らしさがなくなるのか、という質問が出ました。多分サンタ・クロースさんが信じられなくなったころからでしょうと、答えました。
わたしは十一人兄弟の四番めですが、兄や姉たちよりもすぐ下の弟たちとよく悪いことをしながら育ちました。小学校に入った頃でしょうか、クリスマスが近づいて、弟たちがサンタ・クロースさんはいつ来てくれるのかとか、今年は何をくれるのか、というのを聞いたわたしは一大発見をした大科学者のように、「アホ、サンタ・クロースなんておるかいな。あれ、おやっさんやで」と言いました。クリスマス・イブの夜、三人は寝たふりをして、今か今かとサンタ・クロースさんの到着を待ちました。ところが、なかなか来ません。とうとう弟たちは待ちくたびれて、寝てしまいました。わたしももうちょっとで眠りそうになったところで、来ました。サンタ・クロースさんが。ただし、おやっさんではなく、おっかさんでした。翌朝、弟たちは「やっぱりサンタ・クロース来たで」と嬉しそうに語ったのを思い出しています。

写真:戦時中の家族旅行。右に立っているのが長男欽一、
その前に立っているのが崇、左となりが弟の浩(三男)、
左端、母の横に立っているのが、弟の胖(四男)
この後、終戦間際にもう一人女の子が生まれ
兄弟姉妹は合わせて9人となる。
戦後母親が亡くなり父の再婚により子供がさらに
二人増え、十一人兄弟となった。幼少期に亡くなった
二男を数に入れてると全員で12人となる。
崇は戸籍上、三男であった。
上の写真:クリスマスに贈られたシクラメンを崇が撮影したもの
サンタ・クロースは四世紀に小アジアのミラ(現在のトルコ領)の主教であった聖ニコラスがモデルであると言われています。詳しいことは分かりませんが、325年のニケヤ総会議にも出席したようです。はっきりしていることは、死後聖ニコラスに対する尊崇の念が強まり、十世紀に神聖ローマ皇帝オットー二世に嫁したビザンチンの王女によって聖ニコラスの遺骨の一部がドイツにもたらされ、聖ニコラスを記念する教会が二千以上も建立されたということです。その後、聖遺骨はドイツに侵入したイタリア軍によって持ち去られ、今度はイタリア各地で聖ニコラスを記念する教会が建てられたということです。
それほどまでに、聖ニコラスが尊崇された理由は、幾つかの伝説によると思われます。その一つによれば、三人の娘を抱えて、嫁入り支度金に困っていたある夫婦のところにやって来た聖ニコラスが金貨の一杯入った袋を放りこんでいったということです(日本でも「娘三人持てば身代つぶす」ということわざがありましたね)。ほかにも、無実の罪で死刑を宣告され、牢獄に閉じ込められていた青年を奇跡的に助けられた、といった話もあります。いずれにしろ、人間が苦しむときに助けてくれる人の右代表が聖ニコラスと考えられるようになりました。

先月、所用で札幌に行きました。北星学園という学校の近くに、聖公会の教会が新しくできて、名前は「聖ニコラス教会」にしたいということです。日本自体が経済大国となり、子供たちもサンタ・クロースさんにお願いしなくとも、願いごとが何でも叶うようになった現在、聖公会のなかに少なくとも一つ、天使らしさを失わない子供たちのために、サンタ・クロースの教会が出来ることは素晴らしいことだと思いました。(左の写真は函館の聖ニコラス教会)
(北関東教区時報171号 1991年12月)

先月、神戸教区のある教会で、幼稚園の父母会に話を頼まれたので、「人間というものは、天使であった幼児がだんだんと天使らしさを失っていくものである」という持論を述べました。話が終わったところで、いつごろから天使らしさがなくなるのか、という質問が出ました。多分サンタ・クロースさんが信じられなくなったころからでしょうと、答えました。
わたしは十一人兄弟の四番めですが、兄や姉たちよりもすぐ下の弟たちとよく悪いことをしながら育ちました。小学校に入った頃でしょうか、クリスマスが近づいて、弟たちがサンタ・クロースさんはいつ来てくれるのかとか、今年は何をくれるのか、というのを聞いたわたしは一大発見をした大科学者のように、「アホ、サンタ・クロースなんておるかいな。あれ、おやっさんやで」と言いました。クリスマス・イブの夜、三人は寝たふりをして、今か今かとサンタ・クロースさんの到着を待ちました。ところが、なかなか来ません。とうとう弟たちは待ちくたびれて、寝てしまいました。わたしももうちょっとで眠りそうになったところで、来ました。サンタ・クロースさんが。ただし、おやっさんではなく、おっかさんでした。翌朝、弟たちは「やっぱりサンタ・クロース来たで」と嬉しそうに語ったのを思い出しています。

写真:戦時中の家族旅行。右に立っているのが長男欽一、
その前に立っているのが崇、左となりが弟の浩(三男)、
左端、母の横に立っているのが、弟の胖(四男)
この後、終戦間際にもう一人女の子が生まれ
兄弟姉妹は合わせて9人となる。
戦後母親が亡くなり父の再婚により子供がさらに
二人増え、十一人兄弟となった。幼少期に亡くなった
二男を数に入れてると全員で12人となる。
崇は戸籍上、三男であった。
上の写真:クリスマスに贈られたシクラメンを崇が撮影したもの
サンタ・クロースは四世紀に小アジアのミラ(現在のトルコ領)の主教であった聖ニコラスがモデルであると言われています。詳しいことは分かりませんが、325年のニケヤ総会議にも出席したようです。はっきりしていることは、死後聖ニコラスに対する尊崇の念が強まり、十世紀に神聖ローマ皇帝オットー二世に嫁したビザンチンの王女によって聖ニコラスの遺骨の一部がドイツにもたらされ、聖ニコラスを記念する教会が二千以上も建立されたということです。その後、聖遺骨はドイツに侵入したイタリア軍によって持ち去られ、今度はイタリア各地で聖ニコラスを記念する教会が建てられたということです。
それほどまでに、聖ニコラスが尊崇された理由は、幾つかの伝説によると思われます。その一つによれば、三人の娘を抱えて、嫁入り支度金に困っていたある夫婦のところにやって来た聖ニコラスが金貨の一杯入った袋を放りこんでいったということです(日本でも「娘三人持てば身代つぶす」ということわざがありましたね)。ほかにも、無実の罪で死刑を宣告され、牢獄に閉じ込められていた青年を奇跡的に助けられた、といった話もあります。いずれにしろ、人間が苦しむときに助けてくれる人の右代表が聖ニコラスと考えられるようになりました。

先月、所用で札幌に行きました。北星学園という学校の近くに、聖公会の教会が新しくできて、名前は「聖ニコラス教会」にしたいということです。日本自体が経済大国となり、子供たちもサンタ・クロースさんにお願いしなくとも、願いごとが何でも叶うようになった現在、聖公会のなかに少なくとも一つ、天使らしさを失わない子供たちのために、サンタ・クロースの教会が出来ることは素晴らしいことだと思いました。(左の写真は函館の聖ニコラス教会)
(北関東教区時報171号 1991年12月)