「八代さんを語る」 元立教大学総長・元日本私立大学連盟会長・濱田陽太郎
八代さんが逝去された。信徒ならその昇天を祝いとするのだろうが、ノン・クリスチャンの私は、やはり悲しい。しかも私より6歳も若いというのに、激痛からの解放をよかったと思う反面、医学の現段階を恨みたく思うのも、ぐちなのだろうか。

彼は不思議な人だった。理屈をこねる人でもない。情にからんだ言い方をする人でもない。イデオロギーを主張する原則主義者でもない。喜怒哀楽を大げさに表現する人でもない。それなのに彼の主張と依頼をいつの間にか納得せざるを得ない心境にさせてしまう魅力をもった人だった。
彼はたしか神戸二中の出身だったと思うが、八代家に生まれてこなければ、立教へ進学する道を選ばなかったであろうと思うのは、当時、兵庫で中学生活を送った私にとって進学の常識だったと言える。立派な父を持つとそういう生き方になるのかもしれない。彼はそれをぐちったことは一度もない。彼は自分の人生に正面からぶつかり、すなおに人生を受け入れて、淡々と生きてきたように思えてならない。
敗戦後アメリカに学び、苦学し、かなりアメリカ人から敗戦国民の一人として、いやな待遇を受けたようだが、それを語る時も、決して恨み言のようには語らず、己れの人生への糧であったように語るのには、頭の下がる思いがしたものだった。(写真下:立教学院諸聖徒礼拝堂で行われた追悼式。司式は広田司祭、現主教)

私は呑み助だから、八代さんとも酒席でともに話す機会が多かった。ことに、私が1980年に野球部長になった頃から、アメリカン・フットボールの部長、体育会幹事そして体育会長をやられたのだから、そちらの方のお付き合いが多くなったのも自然だったのだろう。彼もアルコールは好きだった。
「がらしや」「ちちぶ」「なかがわ」「ささしゅう」こう書いてくると立教に関わりのある人は、ああ酒をたしなむ?店だなとすぐおわかりになるだろう。代替わりしたり、廃めた店もあるが、これらで二人で、または数人でよく飲みよく語ったものだった。彼は酒に乱れるのをきらっておられた。 でも、乱れた人にからまれても自然体で応じておられた。いくら飲んでも静かに微笑をうかべながらゆったりと語る人柄であった。彼と一緒にいると何となく心にやすらぎを感じる雰囲気をただよわせた人だった。

こう書いてくると彼は何でも受け入れ、八方美人的柔和妥協の人と思われるかもしれないが、決してそういう人ではなかった。芯の強い、頑固といってもいい程、人をみる眼のきびしい人だった。めったに人をそしることのない人だったが、権威主義的な人、口では人権を説きながら行動では別なことをする人、このような人には、大学人であろうが、聖職の同僚であろうが、烈しく批判する人でした。時には私が辟易する程、理非曲直を論ずる人だった。私も頑固と言われている人間ですから、彼のそのようなところも大好きでした。ああいう烈しさは、私流にいわせれば本当に人間を愛している人のみがもてる烈しさだと言うべきだと思う。(写真上:追悼式後の偲ぶ会で語られる濱田総長)
立教大学で同じ文学部に籍を置いた者として、私は彼の学識はもとより、すぐれた人格に敬意をいだいていました。彼は、誰もがいうように「イングランド宗教改革史研究」に代表される英国教会史の我が国における第一人者としての研究者であるばかりでなく、キリスト教学科はもとより全学的に学生を愛する教育者として、また「アングリカン・コミュニオン」に連なる日本聖公会の首座主教として、私たちを常に導き、指針を与えつづけてこられた。
幸い、私は、彼の研究と同時代のイギリス教育史を学んでいたためその内容をかたり合い、ヘンリー八世のさまざまな生き方を論じ合い、この皇帝の人間臭さに笑い合ったのも、いまとなっては楽しい思い出の一つだった。
彼は、多くの研究者が避ける大学全体の管理運営にも正面からその役割を果たしてこられた。文学部の研究センター長を始め、学生部長、学生相談所所長、アメ・フト部長、体育会会長等々、やっていないのは文学部長と総長だといっていい位、立教の学生たちのために、そのエネルギーを注いでこられた。
(写真右下:キャンパスでの開所式、テープカット一番手前が濱田総長、3番目が八代崇)

1986年に、彼と私が推薦委員会から他の同僚たちと共に、総長候補者として推挙された時、私は彼にあなたこそ立教大学の総長に相応しい方だから私は辞退すると告げた。ところが彼は私に対して「今の立教ではあなたが総長候補者として最適です」と言って結局さっさと候補者になることを辞退してしまった。かなり押問答をしたのだが、さきに述べた彼の頑固な信念と、いつのまにか人を説得させてしまう人柄が見事に成功して私が候補者を受けるといういきさつになってしまった。
当時の八方ふさがりの立教大学の状況に風穴をあけてくれという彼のひたむきな希望と彼の助けを期待して受けたのかもしれない。またあるいは日本聖公会北関東教区主教であった彼は「主教や司祭という聖職が、そう易々と総長職などやるべきではない」と思われたのかもしれない。でも、後に私が是非、院長として私を助けてほしいと申し上げた時、一層多忙になっておられたにもかかわらず心よく引受けて下さったことには心から感謝している。以来、毎週ある常務理事会に、病の時は別として、それ以外は、ほとんど欠席されず、なにくれと私の提案をサポートして下さった。百万の援軍よりも、私にとってたのもしい同志とといってはばからない。
その中の一つに、立教の再生のために五十億という私学振興財団すらあきれた募金活動があった。彼は院長・常務理事という立場でこの計画に賛成してくれただけでなく、募金に率先して範を示され、それに見ならっていただいたのかどうかは別として、聖公会有志からの絶大なご協力を受けることができた。誌上ながらご協力いただいた方に心からお礼を申し上げる次第である。
そして池袋キャンパスには学生関係施設「ウイリアムズ・ホール」及び新七号館が落成し、新たに立教大学新座キャンパスを開設することができた。その度に彼は「濱田さん、まず学生の施設を優先して下さい」と私の気持ちと一致する励ましをしてくれたものだった。これらの起工式・落成式には、常に私の隣に彼の姿があり、彼の祈りが関係者を祝福して下さったのをうれしい思い出の一つとして残っている。

1989年不幸にも彼は病をえた。脳を手術するという。立教の通常の選択として聖ロカ病院に入院するという。多少語弊をかえりみずのべるが、その時、私は「今の医学はそれぞれの病の場所、種類によって専門医が細分化されている。病院は患者に選ぶ権利があるのだからもう一考してはどうか、私もあなたに合う医をさがしてみる」と申し上げた。聖ロカには聖ロカでなくてはならぬ専門医も特色もあるだろうが、それを含めて再考をねがったのである。ところが彼はしばらく考えたあとで「ありがとう。しかし私は今のままでいい。神の御手にゆだねるよ」と静かに話された。
もう私にいう言葉はない。ただ祈るだけだった。そこに私は彼が聖職者であるということを感じた。彼が無事私たちの前にあらわれた時、本当に深い喜びをうけたものであった。残念ながら、その後度々の手術を受けたが、最後は夫人の看護にゆだねたという。何ともいいようのない思いである。彼は肺がんが主だったようだが、私も93年食道ガンにかかった。同じガンなのに若い者が逝き、年を取ったものが生き残る。世の無情とはいえ、かえすがえすも無念である。(写真左:脳腫瘍手術を終え、聖ロカ国際病院の前に立つ崇)
(写真下:知子の結婚披露宴でご夫人と濱田総長、左端は広田司祭、現北関東教区主教、立教学院長)

大学の卒業式・入学式に院長としてお話をする機会がある。彼の話の中で感銘を受けたものがある。彼は院長だから立教のよってたつキリスト教の教育をお話になるのは当然なのだが、単に聖書を引用してそれをお話になるようなことはあまりなさらない。
彼は異端を愛せよとお話になった。とかく宗教は排除の論理で異端をきらう。しかし異端をも包みこめないでどうして人を愛するといえるか。パウロの生きた道をみなさい。諸君が社会へ出ても、学内でも、異端をも包みこめる人間になってほしい。おおよそ、そのような趣旨でお話になる。

私は聖職者からこのような話をきいたことはなかった。私はこの教えを守りたいと思う。人を愛するということのむつかしさ、寛さを彼は示してくれたのではなかったろうか。
私はめったに人をほめない人間なのだが、彼だけはほめてあげたいと傲慢かもしれないが、心からそう思う。
彼は私の知らない面ではどうだったのだろう。よき夫、よき父であったのだろうか。多分そうだったと思っている。次女の知子さんの結婚の宴に列席させてもらったのだが、ずっと杖をついて知子さんを微笑みながら見ておられた姿、そして通夜の席で泣きじゃくっていた知子さんの姿を見た時、その答えは出たと私は思った。
(写真上:次女知子を連れて祭壇に向う)
また先に亡くなられた兄の欣一さんが、私と会う度に何はさておいても「弟をよろしく」とおっしゃっておられた姿も忘れられない。

八代さん、ゆっくり安眠して下さい。私は生きている限り、あの結婚式が終わった時、私を送って下さる時に見せた笑顔を忘れないだろう。
さようなら。
立教学院諸生徒礼拝堂発行:チャペル・ニュース 1997年4月号から
濱田陽太郎先生は八代崇の逝去1年後の4月に崇の後を追うように亡くなられました。
日本聖公会 東京教区聖アンデレ教会で葬送式が行われ、千葉の教会墓地に埋葬されました。
八代さんが逝去された。信徒ならその昇天を祝いとするのだろうが、ノン・クリスチャンの私は、やはり悲しい。しかも私より6歳も若いというのに、激痛からの解放をよかったと思う反面、医学の現段階を恨みたく思うのも、ぐちなのだろうか。

彼は不思議な人だった。理屈をこねる人でもない。情にからんだ言い方をする人でもない。イデオロギーを主張する原則主義者でもない。喜怒哀楽を大げさに表現する人でもない。それなのに彼の主張と依頼をいつの間にか納得せざるを得ない心境にさせてしまう魅力をもった人だった。
彼はたしか神戸二中の出身だったと思うが、八代家に生まれてこなければ、立教へ進学する道を選ばなかったであろうと思うのは、当時、兵庫で中学生活を送った私にとって進学の常識だったと言える。立派な父を持つとそういう生き方になるのかもしれない。彼はそれをぐちったことは一度もない。彼は自分の人生に正面からぶつかり、すなおに人生を受け入れて、淡々と生きてきたように思えてならない。
敗戦後アメリカに学び、苦学し、かなりアメリカ人から敗戦国民の一人として、いやな待遇を受けたようだが、それを語る時も、決して恨み言のようには語らず、己れの人生への糧であったように語るのには、頭の下がる思いがしたものだった。(写真下:立教学院諸聖徒礼拝堂で行われた追悼式。司式は広田司祭、現主教)

私は呑み助だから、八代さんとも酒席でともに話す機会が多かった。ことに、私が1980年に野球部長になった頃から、アメリカン・フットボールの部長、体育会幹事そして体育会長をやられたのだから、そちらの方のお付き合いが多くなったのも自然だったのだろう。彼もアルコールは好きだった。
「がらしや」「ちちぶ」「なかがわ」「ささしゅう」こう書いてくると立教に関わりのある人は、ああ酒をたしなむ?店だなとすぐおわかりになるだろう。代替わりしたり、廃めた店もあるが、これらで二人で、または数人でよく飲みよく語ったものだった。彼は酒に乱れるのをきらっておられた。 でも、乱れた人にからまれても自然体で応じておられた。いくら飲んでも静かに微笑をうかべながらゆったりと語る人柄であった。彼と一緒にいると何となく心にやすらぎを感じる雰囲気をただよわせた人だった。

こう書いてくると彼は何でも受け入れ、八方美人的柔和妥協の人と思われるかもしれないが、決してそういう人ではなかった。芯の強い、頑固といってもいい程、人をみる眼のきびしい人だった。めったに人をそしることのない人だったが、権威主義的な人、口では人権を説きながら行動では別なことをする人、このような人には、大学人であろうが、聖職の同僚であろうが、烈しく批判する人でした。時には私が辟易する程、理非曲直を論ずる人だった。私も頑固と言われている人間ですから、彼のそのようなところも大好きでした。ああいう烈しさは、私流にいわせれば本当に人間を愛している人のみがもてる烈しさだと言うべきだと思う。(写真上:追悼式後の偲ぶ会で語られる濱田総長)
立教大学で同じ文学部に籍を置いた者として、私は彼の学識はもとより、すぐれた人格に敬意をいだいていました。彼は、誰もがいうように「イングランド宗教改革史研究」に代表される英国教会史の我が国における第一人者としての研究者であるばかりでなく、キリスト教学科はもとより全学的に学生を愛する教育者として、また「アングリカン・コミュニオン」に連なる日本聖公会の首座主教として、私たちを常に導き、指針を与えつづけてこられた。
幸い、私は、彼の研究と同時代のイギリス教育史を学んでいたためその内容をかたり合い、ヘンリー八世のさまざまな生き方を論じ合い、この皇帝の人間臭さに笑い合ったのも、いまとなっては楽しい思い出の一つだった。
彼は、多くの研究者が避ける大学全体の管理運営にも正面からその役割を果たしてこられた。文学部の研究センター長を始め、学生部長、学生相談所所長、アメ・フト部長、体育会会長等々、やっていないのは文学部長と総長だといっていい位、立教の学生たちのために、そのエネルギーを注いでこられた。
(写真右下:キャンパスでの開所式、テープカット一番手前が濱田総長、3番目が八代崇)

1986年に、彼と私が推薦委員会から他の同僚たちと共に、総長候補者として推挙された時、私は彼にあなたこそ立教大学の総長に相応しい方だから私は辞退すると告げた。ところが彼は私に対して「今の立教ではあなたが総長候補者として最適です」と言って結局さっさと候補者になることを辞退してしまった。かなり押問答をしたのだが、さきに述べた彼の頑固な信念と、いつのまにか人を説得させてしまう人柄が見事に成功して私が候補者を受けるといういきさつになってしまった。
当時の八方ふさがりの立教大学の状況に風穴をあけてくれという彼のひたむきな希望と彼の助けを期待して受けたのかもしれない。またあるいは日本聖公会北関東教区主教であった彼は「主教や司祭という聖職が、そう易々と総長職などやるべきではない」と思われたのかもしれない。でも、後に私が是非、院長として私を助けてほしいと申し上げた時、一層多忙になっておられたにもかかわらず心よく引受けて下さったことには心から感謝している。以来、毎週ある常務理事会に、病の時は別として、それ以外は、ほとんど欠席されず、なにくれと私の提案をサポートして下さった。百万の援軍よりも、私にとってたのもしい同志とといってはばからない。
その中の一つに、立教の再生のために五十億という私学振興財団すらあきれた募金活動があった。彼は院長・常務理事という立場でこの計画に賛成してくれただけでなく、募金に率先して範を示され、それに見ならっていただいたのかどうかは別として、聖公会有志からの絶大なご協力を受けることができた。誌上ながらご協力いただいた方に心からお礼を申し上げる次第である。
そして池袋キャンパスには学生関係施設「ウイリアムズ・ホール」及び新七号館が落成し、新たに立教大学新座キャンパスを開設することができた。その度に彼は「濱田さん、まず学生の施設を優先して下さい」と私の気持ちと一致する励ましをしてくれたものだった。これらの起工式・落成式には、常に私の隣に彼の姿があり、彼の祈りが関係者を祝福して下さったのをうれしい思い出の一つとして残っている。

1989年不幸にも彼は病をえた。脳を手術するという。立教の通常の選択として聖ロカ病院に入院するという。多少語弊をかえりみずのべるが、その時、私は「今の医学はそれぞれの病の場所、種類によって専門医が細分化されている。病院は患者に選ぶ権利があるのだからもう一考してはどうか、私もあなたに合う医をさがしてみる」と申し上げた。聖ロカには聖ロカでなくてはならぬ専門医も特色もあるだろうが、それを含めて再考をねがったのである。ところが彼はしばらく考えたあとで「ありがとう。しかし私は今のままでいい。神の御手にゆだねるよ」と静かに話された。
もう私にいう言葉はない。ただ祈るだけだった。そこに私は彼が聖職者であるということを感じた。彼が無事私たちの前にあらわれた時、本当に深い喜びをうけたものであった。残念ながら、その後度々の手術を受けたが、最後は夫人の看護にゆだねたという。何ともいいようのない思いである。彼は肺がんが主だったようだが、私も93年食道ガンにかかった。同じガンなのに若い者が逝き、年を取ったものが生き残る。世の無情とはいえ、かえすがえすも無念である。(写真左:脳腫瘍手術を終え、聖ロカ国際病院の前に立つ崇)
(写真下:知子の結婚披露宴でご夫人と濱田総長、左端は広田司祭、現北関東教区主教、立教学院長)

大学の卒業式・入学式に院長としてお話をする機会がある。彼の話の中で感銘を受けたものがある。彼は院長だから立教のよってたつキリスト教の教育をお話になるのは当然なのだが、単に聖書を引用してそれをお話になるようなことはあまりなさらない。
彼は異端を愛せよとお話になった。とかく宗教は排除の論理で異端をきらう。しかし異端をも包みこめないでどうして人を愛するといえるか。パウロの生きた道をみなさい。諸君が社会へ出ても、学内でも、異端をも包みこめる人間になってほしい。おおよそ、そのような趣旨でお話になる。

私は聖職者からこのような話をきいたことはなかった。私はこの教えを守りたいと思う。人を愛するということのむつかしさ、寛さを彼は示してくれたのではなかったろうか。
私はめったに人をほめない人間なのだが、彼だけはほめてあげたいと傲慢かもしれないが、心からそう思う。
彼は私の知らない面ではどうだったのだろう。よき夫、よき父であったのだろうか。多分そうだったと思っている。次女の知子さんの結婚の宴に列席させてもらったのだが、ずっと杖をついて知子さんを微笑みながら見ておられた姿、そして通夜の席で泣きじゃくっていた知子さんの姿を見た時、その答えは出たと私は思った。
(写真上:次女知子を連れて祭壇に向う)
また先に亡くなられた兄の欣一さんが、私と会う度に何はさておいても「弟をよろしく」とおっしゃっておられた姿も忘れられない。

八代さん、ゆっくり安眠して下さい。私は生きている限り、あの結婚式が終わった時、私を送って下さる時に見せた笑顔を忘れないだろう。
さようなら。
立教学院諸生徒礼拝堂発行:チャペル・ニュース 1997年4月号から
濱田陽太郎先生は八代崇の逝去1年後の4月に崇の後を追うように亡くなられました。
日本聖公会 東京教区聖アンデレ教会で葬送式が行われ、千葉の教会墓地に埋葬されました。