オヤジの蔵書
オヤジが二回目の召集を受けて大阪の部隊に入隊したのは、敗戦も間近い昭和二〇年の春のことだったと思う。兄貴は入隊していたし、浩以下は学童疎開でいず、男で家にいたのは私だけだった。オヤジは毎晩兵営を抜け出して来て、牧師館の横にでっかい穴を掘り始めた。栄養失調気味ではあったが、唯一人の男性としてやむなく穴掘りを手伝ったのを憶えている。
六月五日、神戸大空襲で聖ミカエル教会の聖堂も牧師館も完全に灰となった。終戦を東京で迎えたオヤジは、他の人よりひと足早く帰還して、早速焼跡を掘り返し始めた。何が出てくるかと固唾を飲んで見守っていたわれわれの前に現われたのは、聖餐式の道具と本ばかりであった。しかも、湿気で背表紙が取れていたり、シミやカビだらけの本であった。ひもじい毎日を送っていたわれわれの落胆ぶりは想像におまかせする。
(写真左下:晩年の斌助主教。「ミカエルの友」は文書伝道として彼が戦前から書き続けた個人雑誌。最終号の表紙に載せた写真)

昭和四五年十一月、オヤジの死去の後始末がそろそろ一段落したころ、蔵書をどうするかという問題が生じた。日本語の本は家に置いて、洋書は松蔭女子大学と八代学院大に寄贈することにした。
整理し始めると、あの懐かしい背表紙の取れた、シミだらけの本が出て来た。戦災ですべてを焼いてしまったわけだから、蔵書の95%は戦後購入したものであったが、それらの本の間にカビ臭い、みすぼらしい本が点在していたのである。毎晩大阪から帰って来て、これだけは焼いてはならないと埋めていった本とは、どんな本だったのか。
興味をおぼえ、最初の一冊を手に取ってみて驚いた。フッカーの『教会政治法理論』(キーブル版、1836年)の第2巻である。感心させられた私は、カビ臭い本を全部抜き出してみた。ウェストコットがある。ホートがある。ライトフットもあればストリーターもある。モーリスのも出て来た。イギリス教会史を専攻する私にとって有難かったのは、久しく絶版になっていて、しかも神学院や立教の図書館にもなく、ましてや他の一般大学にはないような本が出て来たことである。主だったものを少し挙げてみると、
R.W.Church, Book1 of the Laws of Ecclesiastical Polity, 1868.
G.W. Child, Church and State under the Tudors, 1890.
Clarendon, The History of the Rebellion and Civil Wars in England, 1839.
H. Gee, The Elizabethan Prayer-Book & Ornaments, 1902.
The Pythouse Papers, 1879.
などである。
(写真右下:斌助主教は毎年元旦に色紙を年賀状として、信徒に贈っていたが、これは最後の色紙となった)

パーカー協会叢書中ジュールやグリンダルのもあったし、スティーブンスとハントの編集になる『イギリス教会史』もあった。デュシェーンの『キリスト教の礼拝』があったのにも感心した。悪いけれどこれらの本は寄贈しないことにして、オフクロの了解を得て持ち帰った。ジーの『イギリス教会史資料集』はいまだに重宝している。
オヤジは正規の教育を受けなかったので、学問を身につけた人間に対して異常な程の尊敬を払っていた。国立大学の卒業生や、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などを読める人間をこよなく愛したのである。
正規の教育を受けたわけではないから、系統的に本を集めるということもオヤジはしなかった。事実残された蔵書は、まさに玉石混交の観を呈していた。すばらしい美術書と三文小説が並んで置かれ、とっくに時代遅れとなった神学書がドラッカー、パーソンズ、フロム、サルトル、カミューなど戦後脚光を浴びた人々の書物と平和共存していた。
(写真左下:親父の遺影を抱える兄欽一司祭(当時)、母親に続いてコープを抱えているのが崇、その後に弟浩がマイターを抱えて立っている)

それだけに、戦時下のあのわずかな時間を利用して、これだけはと埋めていった書物が学問的に価値あるものであったことを知って、思いを新たにさせられたのである。
「オレは雑学博士だから雑文しか書かない」と言いつつ、オヤジは寸暇を惜しんで筆を走らせていた。しかし、この口癖となった言葉の背後には、大学出や外国の神学校出に負けるものか、という自負が秘められてはいなかっただろうか。体力(腕力?)やレトリックで人々を一時的に従わせることは不可能ではないであろう。しかし永続的に人を引き付けるためには、カリスマ的なものの ロゴス化が不可欠である。
H.Yashiro (昭和十五年の主教聖別の時にミカエルというクリスチャン・ネームが出来たので、以後はM.H.Yashiroと署名されている) と署名された、背表紙の取れたカビ臭い本は、正規の学問をした人間に負けないために、オレはこれだけ勉強したんだ、といった執念を示しているように思われてならないのである。
(写真右下:自宅で父との別れ、「オヤジ、ご苦労かけたな」とほほ笑んでいるようにも見える崇)

八代崇(故人三男・立教大学文学部教授)
(兄欽一のすぐ後に生まれた次男は早世したので崇は戸籍上三男だった)
「回想の八代斌助」編者八代欽一、山口光朔、1976・6・30 発行
法律文化社 より抜粋
オヤジが二回目の召集を受けて大阪の部隊に入隊したのは、敗戦も間近い昭和二〇年の春のことだったと思う。兄貴は入隊していたし、浩以下は学童疎開でいず、男で家にいたのは私だけだった。オヤジは毎晩兵営を抜け出して来て、牧師館の横にでっかい穴を掘り始めた。栄養失調気味ではあったが、唯一人の男性としてやむなく穴掘りを手伝ったのを憶えている。
六月五日、神戸大空襲で聖ミカエル教会の聖堂も牧師館も完全に灰となった。終戦を東京で迎えたオヤジは、他の人よりひと足早く帰還して、早速焼跡を掘り返し始めた。何が出てくるかと固唾を飲んで見守っていたわれわれの前に現われたのは、聖餐式の道具と本ばかりであった。しかも、湿気で背表紙が取れていたり、シミやカビだらけの本であった。ひもじい毎日を送っていたわれわれの落胆ぶりは想像におまかせする。
(写真左下:晩年の斌助主教。「ミカエルの友」は文書伝道として彼が戦前から書き続けた個人雑誌。最終号の表紙に載せた写真)

昭和四五年十一月、オヤジの死去の後始末がそろそろ一段落したころ、蔵書をどうするかという問題が生じた。日本語の本は家に置いて、洋書は松蔭女子大学と八代学院大に寄贈することにした。
整理し始めると、あの懐かしい背表紙の取れた、シミだらけの本が出て来た。戦災ですべてを焼いてしまったわけだから、蔵書の95%は戦後購入したものであったが、それらの本の間にカビ臭い、みすぼらしい本が点在していたのである。毎晩大阪から帰って来て、これだけは焼いてはならないと埋めていった本とは、どんな本だったのか。
興味をおぼえ、最初の一冊を手に取ってみて驚いた。フッカーの『教会政治法理論』(キーブル版、1836年)の第2巻である。感心させられた私は、カビ臭い本を全部抜き出してみた。ウェストコットがある。ホートがある。ライトフットもあればストリーターもある。モーリスのも出て来た。イギリス教会史を専攻する私にとって有難かったのは、久しく絶版になっていて、しかも神学院や立教の図書館にもなく、ましてや他の一般大学にはないような本が出て来たことである。主だったものを少し挙げてみると、
R.W.Church, Book1 of the Laws of Ecclesiastical Polity, 1868.
G.W. Child, Church and State under the Tudors, 1890.
Clarendon, The History of the Rebellion and Civil Wars in England, 1839.
H. Gee, The Elizabethan Prayer-Book & Ornaments, 1902.
The Pythouse Papers, 1879.
などである。
(写真右下:斌助主教は毎年元旦に色紙を年賀状として、信徒に贈っていたが、これは最後の色紙となった)

パーカー協会叢書中ジュールやグリンダルのもあったし、スティーブンスとハントの編集になる『イギリス教会史』もあった。デュシェーンの『キリスト教の礼拝』があったのにも感心した。悪いけれどこれらの本は寄贈しないことにして、オフクロの了解を得て持ち帰った。ジーの『イギリス教会史資料集』はいまだに重宝している。
オヤジは正規の教育を受けなかったので、学問を身につけた人間に対して異常な程の尊敬を払っていた。国立大学の卒業生や、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などを読める人間をこよなく愛したのである。
正規の教育を受けたわけではないから、系統的に本を集めるということもオヤジはしなかった。事実残された蔵書は、まさに玉石混交の観を呈していた。すばらしい美術書と三文小説が並んで置かれ、とっくに時代遅れとなった神学書がドラッカー、パーソンズ、フロム、サルトル、カミューなど戦後脚光を浴びた人々の書物と平和共存していた。
(写真左下:親父の遺影を抱える兄欽一司祭(当時)、母親に続いてコープを抱えているのが崇、その後に弟浩がマイターを抱えて立っている)

それだけに、戦時下のあのわずかな時間を利用して、これだけはと埋めていった書物が学問的に価値あるものであったことを知って、思いを新たにさせられたのである。
「オレは雑学博士だから雑文しか書かない」と言いつつ、オヤジは寸暇を惜しんで筆を走らせていた。しかし、この口癖となった言葉の背後には、大学出や外国の神学校出に負けるものか、という自負が秘められてはいなかっただろうか。体力(腕力?)やレトリックで人々を一時的に従わせることは不可能ではないであろう。しかし永続的に人を引き付けるためには、カリスマ的なものの ロゴス化が不可欠である。
H.Yashiro (昭和十五年の主教聖別の時にミカエルというクリスチャン・ネームが出来たので、以後はM.H.Yashiroと署名されている) と署名された、背表紙の取れたカビ臭い本は、正規の学問をした人間に負けないために、オレはこれだけ勉強したんだ、といった執念を示しているように思われてならないのである。
(写真右下:自宅で父との別れ、「オヤジ、ご苦労かけたな」とほほ笑んでいるようにも見える崇)

八代崇(故人三男・立教大学文学部教授)
(兄欽一のすぐ後に生まれた次男は早世したので崇は戸籍上三男だった)
「回想の八代斌助」編者八代欽一、山口光朔、1976・6・30 発行
法律文化社 より抜粋