父・八代斌助 ― 父の死に思う―
父には十一人の子供がいた。そのひとりひとりが、自分こそは父に一番可愛がられたと思っている。私も例外ではない。私には父に叱られたという記憶がないのである。
昭和二十六年三月、私は父に無断で、立教大学に退学届を出し、さっさと帰郷してしまった。一週間ほどしてそのことを知った父は、一言も小言らしいことを言わなかった。父自身も立教を卒業しなかった。しかし、父と私とでは事情が違っていた。父は青島(チンタオ)に出稼ぎに行くためであり、私は自分のわがままからであった。
父は、口には出さなかったが、自分が正規の学業を終えられなかったことを残念に思っていた。それだけに、学問をする人間には、異常なほどの敬意を払った。後年、私がアメリカから帰って来てからのことだが、父は自分の読んでいる英語の本の中にギリシャ語が出てきたりすると、少し恥ずかしげに、「おい、これはどういうことだ」と聞いていた。たまたまその言葉を私が知っていたりすると、俺の知らないことを知っている、といわんばかりに、満足げな顔をしていた。
話を元へ戻すと、父は、私の無断退学を叱る代わりに、アメリカ行きを命じた。当時はなお占領下で、日本は政治的にも経済的にも、混乱の中にあった。二十二歳にもなっていなかった私は、ものすごく心細かったが、やむなく一人で神戸を船出し、戦勝国アメリカに向かった。
昭和二十九年夏、私は父と再会した。ミネアポリスで開かれたアングリカン・コングレスに出席した父が日本へ帰る途上、シカゴに立ち寄った折であった。私は一人の女性をガール・フレンドだと言って父に紹介した。父は嬉しそうに、「車を買うから、一緒にサンフランシスコまで行こう」と言った。
三百ドルで買ったポンコツ車に、父、私、ガール・フレンド、小笠原の叔父(現中部教区主教)、柳田(旧姓小林)満里子さん、大石吉郎、北関東の天野さん、の計七名が乗り込んだ。いくら外車でも、これでは定員オーバーであった。夏の盛りに、これでシカゴからサンフランシスコまで二千マイルを行こうというのだから、だれも服装などにかまってはおられなかった。父はランニングシャツに半ズボン姿で、大きな体を小さくし、小笠原の叔父の口から次々に飛び出してくる冗談を楽しそうに聞いていた。

(写真 左:モーテルの近くのレストランで、
左から2人目父・斌助、右端:洋子、中央:崇)
車はシカゴからものの七十マイルも来たところでエンコしてしまった。修理に半日はかかるという。異様な一行は、近くのモーテルに泊まった。翌朝、欠食児童であった私は、朝食なのに、極上のビフテキを注文した。さもあきれたという顔をしながら、父は、これも朝からハイボールを立て続けに五・六杯お代わりしていた。

途中二泊ほどしてカンサスに入った私達は、元京都教区主教であったニコルス先生にお会いした。ポンコツ車の中から、半ズボン、ランニングシャツ姿の父が汗びっしょりになって出て来たので、ニコルス主教はたまげていた。
(写真右:後列右から2人目 ニコルス主教、
その隣父斌助 左端 崇、その隣洋子)

そのあと車はロッキー山脈を越え、ネバダ州のリノに着いた。バクチの町である。叔父と甥が、夢中になってスロット・マシンにかじりついているのを
横目に見ながら、父はひとりで杯を重ねていた。
(写真左:モーテルで父の散髪をする崇)

(写真右:ユタ州のグレイト・ソルトレイク(塩湖)にて。
背景は真っ白な塩の湖
車に同乗した面々、右から叔父の小笠原主教。洋子、
交替で運転をしてくれた天野さん、斌助主教
小林満里子さん、親友の大石吉郎さん、
崇はカメラマンの役をしているので入っていない。)
旅行の最後の一日、私は徹夜で運転した。サクラメントの町へ入ったとき、私は疲れでハンドルを切りそこなった。車は何かに当たってガクンときた。父以外の体の軽い連中は車の天井に頭をぶつけて驚いていた。

サンフランシスコでは、アングリカン・コングレスに出席した他の日本人代表が待っていた。日本料理屋で壮行会が開かれたが、この時ぐらい、父がぐでんぐでんに酔ったのは珍しかった。大役を果たした安堵感のためだろうか、父が、二階から外に小便をするといって竹之内端男先生を困らしていたのが、昨日のことのように思い出される。
(写真左:サンフランシスコ空港で父たちを見送る
左の二人、大石さんと小林さんはアメリカの大学留学のため残った。
サンフランシスコは8月でも寒いことがある。コートを着ている)
昭和三十三年、ともかく神学校を卒業したので、私は帰国することにした。父は手紙をよこして、もっと残って勉強しろと言ってきたが、私は聞かなかった。私の妻が身重であったせいもある。前年私達は、これもさっさと結婚したのだった。帰国した私をつかまえて父は「残念だなあ」とひと言もらしたが、叱りはしなかった。
爾来十年、ときどき神戸へ父を尋ねて行くと、いつも「俺は雑文しか書けぬが、お前はちゃんとしたものを書け」とくどいように言っていた。九月に父が再び入院したというので家族で見舞いに行った。父は私の妻に「アメリカでは面白かったな」と言い、私には相変わらず「ちゃんとしたものを書けよ」と言った。ちゃんとしたものを書かないうちに父を送り出すはめになったことが、私の一番の痛恨事である。
八代崇当時(日本聖公会・八木基督教会司祭)
父の死の翌年1971年から立教大学で教職につくことになった。
そして、激動の16世紀の英国史を学術書として次々に発表することになる。
雑誌 「立教」 Winter 1970
父には十一人の子供がいた。そのひとりひとりが、自分こそは父に一番可愛がられたと思っている。私も例外ではない。私には父に叱られたという記憶がないのである。
昭和二十六年三月、私は父に無断で、立教大学に退学届を出し、さっさと帰郷してしまった。一週間ほどしてそのことを知った父は、一言も小言らしいことを言わなかった。父自身も立教を卒業しなかった。しかし、父と私とでは事情が違っていた。父は青島(チンタオ)に出稼ぎに行くためであり、私は自分のわがままからであった。
父は、口には出さなかったが、自分が正規の学業を終えられなかったことを残念に思っていた。それだけに、学問をする人間には、異常なほどの敬意を払った。後年、私がアメリカから帰って来てからのことだが、父は自分の読んでいる英語の本の中にギリシャ語が出てきたりすると、少し恥ずかしげに、「おい、これはどういうことだ」と聞いていた。たまたまその言葉を私が知っていたりすると、俺の知らないことを知っている、といわんばかりに、満足げな顔をしていた。
話を元へ戻すと、父は、私の無断退学を叱る代わりに、アメリカ行きを命じた。当時はなお占領下で、日本は政治的にも経済的にも、混乱の中にあった。二十二歳にもなっていなかった私は、ものすごく心細かったが、やむなく一人で神戸を船出し、戦勝国アメリカに向かった。
昭和二十九年夏、私は父と再会した。ミネアポリスで開かれたアングリカン・コングレスに出席した父が日本へ帰る途上、シカゴに立ち寄った折であった。私は一人の女性をガール・フレンドだと言って父に紹介した。父は嬉しそうに、「車を買うから、一緒にサンフランシスコまで行こう」と言った。
三百ドルで買ったポンコツ車に、父、私、ガール・フレンド、小笠原の叔父(現中部教区主教)、柳田(旧姓小林)満里子さん、大石吉郎、北関東の天野さん、の計七名が乗り込んだ。いくら外車でも、これでは定員オーバーであった。夏の盛りに、これでシカゴからサンフランシスコまで二千マイルを行こうというのだから、だれも服装などにかまってはおられなかった。父はランニングシャツに半ズボン姿で、大きな体を小さくし、小笠原の叔父の口から次々に飛び出してくる冗談を楽しそうに聞いていた。

(写真 左:モーテルの近くのレストランで、
左から2人目父・斌助、右端:洋子、中央:崇)
車はシカゴからものの七十マイルも来たところでエンコしてしまった。修理に半日はかかるという。異様な一行は、近くのモーテルに泊まった。翌朝、欠食児童であった私は、朝食なのに、極上のビフテキを注文した。さもあきれたという顔をしながら、父は、これも朝からハイボールを立て続けに五・六杯お代わりしていた。

途中二泊ほどしてカンサスに入った私達は、元京都教区主教であったニコルス先生にお会いした。ポンコツ車の中から、半ズボン、ランニングシャツ姿の父が汗びっしょりになって出て来たので、ニコルス主教はたまげていた。
(写真右:後列右から2人目 ニコルス主教、
その隣父斌助 左端 崇、その隣洋子)

そのあと車はロッキー山脈を越え、ネバダ州のリノに着いた。バクチの町である。叔父と甥が、夢中になってスロット・マシンにかじりついているのを
横目に見ながら、父はひとりで杯を重ねていた。
(写真左:モーテルで父の散髪をする崇)

(写真右:ユタ州のグレイト・ソルトレイク(塩湖)にて。
背景は真っ白な塩の湖
車に同乗した面々、右から叔父の小笠原主教。洋子、
交替で運転をしてくれた天野さん、斌助主教
小林満里子さん、親友の大石吉郎さん、
崇はカメラマンの役をしているので入っていない。)
旅行の最後の一日、私は徹夜で運転した。サクラメントの町へ入ったとき、私は疲れでハンドルを切りそこなった。車は何かに当たってガクンときた。父以外の体の軽い連中は車の天井に頭をぶつけて驚いていた。

サンフランシスコでは、アングリカン・コングレスに出席した他の日本人代表が待っていた。日本料理屋で壮行会が開かれたが、この時ぐらい、父がぐでんぐでんに酔ったのは珍しかった。大役を果たした安堵感のためだろうか、父が、二階から外に小便をするといって竹之内端男先生を困らしていたのが、昨日のことのように思い出される。
(写真左:サンフランシスコ空港で父たちを見送る
左の二人、大石さんと小林さんはアメリカの大学留学のため残った。
サンフランシスコは8月でも寒いことがある。コートを着ている)
昭和三十三年、ともかく神学校を卒業したので、私は帰国することにした。父は手紙をよこして、もっと残って勉強しろと言ってきたが、私は聞かなかった。私の妻が身重であったせいもある。前年私達は、これもさっさと結婚したのだった。帰国した私をつかまえて父は「残念だなあ」とひと言もらしたが、叱りはしなかった。
爾来十年、ときどき神戸へ父を尋ねて行くと、いつも「俺は雑文しか書けぬが、お前はちゃんとしたものを書け」とくどいように言っていた。九月に父が再び入院したというので家族で見舞いに行った。父は私の妻に「アメリカでは面白かったな」と言い、私には相変わらず「ちゃんとしたものを書けよ」と言った。ちゃんとしたものを書かないうちに父を送り出すはめになったことが、私の一番の痛恨事である。
八代崇当時(日本聖公会・八木基督教会司祭)
父の死の翌年1971年から立教大学で教職につくことになった。
そして、激動の16世紀の英国史を学術書として次々に発表することになる。
雑誌 「立教」 Winter 1970