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立教の教育 立教学院院長講話

立教の教育
 立教学院院長 八代崇 講話  立教小学校PTA総会での講話

廣澤先生に今、ご紹介いただきました八代です。廣澤先生、私いつも尊敬しておるんですが、今日は「講釈師見てきた様な嘘を言い」ってな所で、今の紹介は、多分に少しオーバーな話だと思うんです。
 実は、この話をご依頼いただきました時に、私は小学校の教育に関しては全くズブの素人で、何をお話し申し上げて良いか解りませんので、ご辞退しようと思ったんですが、ともかく立教の事について話をしろという事で、お引き受けしたわけです。
 それで、まあ、私も、自分自身小学校で教育を受けましたし、また親として私の子どもたちを教育するのに小学校にも送りましたので、そういった経験と合わせて、自分が育ってきた時代に、何を学んだのかと、今の言葉で申しますと、「自分史」とでも言いましょうか、そんな事をお話することによって、立教という学校はどういう学校なのか、またそこではどういう教育をしようとしているのか、というような事をお話してみたいと思ったわけです。
 私は教育の専門家じゃありません。教育学の専門家ではありませんが、まあ私達が「教育」という場合には、それは、やはり人間と人間との関係の中で行われる事だろうと思うんです。ご承知の様に、今の様にテレビやその他のマスメディアが発達してきますと、何か知りたいことは、別に学校に行かなくてもこれ学べる訳です。つまり知識は得られるわけです。ただ学校で先生方や、他の生徒、教職員の方々、あるいは家庭ではご両親、ご家族の方々、友達といった人達との出会いと言うか、交わりの中で学んで行くところに、私は、教育の貴さがあると思うのです。そういうものを通して人間として成長していくのだと思います。
 
 今日これから申し上げたい事は、私の我流に考えました所によりますと、教育というのは、「自由」、「フリーダム」と「規律」または「しつけ」と言っても良いでしょう。その「自由と規律」あるいは、自分自身を治めるという意味においての「自律」という事と、自分の外のものによって強制されるという意味での「他律」とでもいいますか、そういうものが、うまく結びつき、うまくバランスをとって、行われる時に本当に良い教育が出来ると思うのです。つまり「強制」されるという事と「自由」にやるという事、自分自身で主体的にやる「自立」出来る事と、いろんな機構によって自分が束縛されていて「他立」(依存、依属)している、そういう一見、相矛盾するようなものがうまくバランスをとって、結びついた時に本当の意味で良い教育が出来るのではないかと思います。つまり、自由放任にあまやかせてもいけない、強制し過ぎてもいけない。そこでどううまくバランスをとるのか。そういうことになるのではないかという気がする訳ですね。それを私自身の「自分史」と言いますか、自分が今まで経験してきた事に即しながら、少しお話をさせていただきたいと思います。(写真下:17歳、立教大予科1年生)

 17歳立大予科1年縮小
実は、私は、1971年、昭和46年に、立教大学へ勤める事になりまして、関西から参ったわけです。初めて文学部の教授会という所に出ました。ひょっとしたら、ここにフランス文学科のご卒業の方がいらしたらご存知かと思うのですが、立教大学の文学部に川村克己先生という方がいらっしゃいます。その方がたまたま私の隣に座られて、ニヤニヤされるんですね。そして
 「オイ、八代」
と、そして、
 「お前のエンマ帳見せてやろうか」
とこう言ったわけです。実は、川村先生は私の恩師だったのです。ところが、見なくても私は、エンマ帳に何点て書いてあるか分かっているものですから、
 「先生、勘弁して下さい。許して下さい」
と申し上げたのです。そこに書いてあるのは恐らく、
 「八代、レイテン」
となっているはずなのです。と申しますのは、私は、昭和23年、1948年に、立教に入りまして、この川村先生の授業を取ったのです。川村先生は、非常に優しい先生なんですけれど、ある意味で厳しい先生です。私は、川村先生ばかりではありません。他の先生、全ての先生方ひっくるめて、落第生だったのです。(写真下:立大に入学したが、授業をさぼり、麻雀荘にいりびたったという)

 19歳立大1年縮小
そこで、私が、どうして落第生になったかという事をこれから申し上げます。人間、大体自分の不都合な事は、他人のせいにするわけです。親とか兄弟とか友達とか、また環境のせいにする、または時代が悪いんだとか。そういう事を言う訳ですね。従いまして、私も似たような事を言ってみたい訳なんです。
 私は、十一人兄弟の四番目に生まれて、男としては上から二番目ですが、全体では上から四番目なんです。そして第二次大戦の前に小学校に行きましたので、小学校の一年生でまず暗記させられたのが、百二十五代の天皇の名前です。これはもう、ものの半年位で覚えられたと思います。その後「教育勅語」、これも暗記させられました。
 そして、小学校四年生の時に、日本軍がハワイのパールパーバーを攻撃しまして、そこで第二次大戦、太平洋戦争というのが始まったのです。その時に、私も学校から帰りまして、十二月八日だったと思いますが、ともかく日本軍が大勝ちに勝ったというので、喜んで帰って、その事を父親に言った訳です。そうしましたら父親がですね、
 「アメリカもイギリスも強いからこれから大変だぞ」
とこう言った。私は子ども心にですね
 「あ、何という非国民だ」
と思いました。日本国中が喜んでいるのに父親がそういう事言う訳でしょう。ただ私の父親は若い時に、英国で勉強した事がありまして、まあ客観的に見て世界の国々の中で、日本の国力はどの位だったかを知っていたんでしょうね。ところがその父親も、私の長兄も、この前神戸で亡くなりましたが、もう昭和十九年から、戦争が激しくなりましたので、兵隊にとられました。それで、丁度神戸の町が焼けました時には、そんなに沢山兄弟はいたんですが、男手は私一人、弟達は疎開していました。そこで、母親や妹達を連れて、焼夷弾の降る中を逃げた、というのが昭和二十年の事だったのです。
(写真下:家族旅行。父親の隣、兄の前に立っているのが崇。この後、終戦5か月前の3月にもう一人この母親から女の子が生まれた。)

 家族旅行縮小、修正

その戦争が一応終わりましたので、ホッとしました。そこで、さあこれから空襲も無いのでゆっくり寝られるなと、思ったのですが、戦争が終わってひと月たった九月二五日に、母親が死んでしまったのです。その時母親は四二歳でした。だから、私の母親は、ただ子どもを産むためにこの世に生れて来たみたいなものです。戦争中は自分の主人も長男も、戦争に引っ張られている中を守り通し、やっと戦争が終わったら死んでしまったのです。その時、神戸中、東京もそうだったんでしょうけど、焼け野原だったものですから、霊柩車が無いわけです。そこで、焼け残った八百屋さんから大八車を借りて、遺体を火葬場まで運んだ事を思い出します。それが中学校二年生の時でした。
 私は、自分で言ってはちょっとおかしいのですが、小学校の時には非常に真面目な児童でした。一年生から六年生まで無遅刻、無欠席です。卒業の時には県知事さんから表彰されました。そして、中学校に入ってからも、日本が戦争に負けるまでは、一日も休まず学校へ行ったのです。神戸が空襲で焼けても学校へは行ったんです。
 ところが戦争に負けちゃった。先生方は、絶対に日本は負けることはないと教えてくれたのに、負けたわけです。私は、いいかげん頭にきて、それから後は、中学校三年、四年は、学校へほとんど行かなかったのです。神戸の闇市をうろついて、まあ遊ぶだけ遊んで、さぼるだけさぼって。でそういう中でですね、別に、これで今の立教を悪く言うつもり全く無いんですけれど、私の父親が、 
 「東京の立教にいかないか」
とこう言ったんです。
 立教大学というのは、私が属しております聖公会という教会の学校でして、昔牧師さんになるためには、ここに来なければいけなかった。そして、私達は丁度、旧制の一番最後だったものですから、旧制中学校の四年生から、大学の予科というところへ入れる一番最後のチャンスでもあった訳です。
 そこで、立教大学へ来る事にしたんです。もう一つ都合の良かったのは、聖公会と関係が深かった学校ですから、牧師の息子は、ほとんどフリーパスで入れたのです。古き良き時代だったのです。そういう事で、立教大学へ入った訳です。
 昭和二三年というのは、現在NHKでやっております「君の名は」の時代ですね。食べる物も無し、ここ池袋辺りは、全部焼け跡だったんです。学校に来ましても、戦争から帰って来た、同じ学年の学生なんですけど、肩章ははずしているんですが、元陸軍中尉殿とか、海軍の一等水兵さんだとか、そういう人が沢山いまして、我々ちんぴらは、相手にしてくれないのです。
 そこで、学校にも行かず、教室にも行かず、授業も取らずと、そういう生活をしていました。その中で先程申しました、川村先生がですね、
 「せめて、フランスの国歌位書いたら通してやる」
とおっしゃったのです。それで私も友達と「ラ・マルセイユ」を覚えようとしたんですけれど、やっぱりダメでした。それで、さっき申し上げたように試験の答案は殆ど書けなかったのです。それで、立教には二年通いましたけれど、ともかく単位が取れないので、退学という形で神戸へ帰りました。

 渡米の船上で縮小
私は父親に、こっぴどく叱られるかと思ったら、叱らないんですね。何故やめて帰って来たのかということも聞かないんです。その、子どもが十一人もいたら、そんな事かまっちゃいられない、という事もあったかもしれませんが、ともかく聞かない。そうしますと、自分も何か言ってみたい訳です。ちょうどその頃に、出ました本が、池田潔という人の「自由と規律」という本なのです。これは最近でも出てますので、お読みになった方もいらっしゃると思いますが、イギリスの学校生活の事について書かれた本です。非常に面白いので、お読みになっていらっしゃらなかったら是非読まれると良いと思います。
 この池田という人は、実は、昭和の始めに、イギリスで教育を受けて、大学はケンブリッジ大学に行ったんですが、この人のお父さんは、三井の大番頭だと言われた池田せいひん、成彬、そういう人です。大財閥の番頭さんの息子だから、こんな教育を受けられたのだろうと、思いながらも読んでいたのですが、私の父親にですね、
 「せめて、こういう学校があったら、私は勉強する」位の事言ったのでしょうね。そうしたら、ひょうたんから出た駒みたいに、
 「おおそうか、じゃアメリカへ行くか」
という事になりました。それでアメリカへ行ったのです。
 
(写真:ウィルソン号で渡米。洋上でアロハシャツ姿)



ウィルソン号にて渡米3人縮小
今振り返って見ますと、あの時代に、アメリカに行かせてもらえたという事は本当に感謝なのですが、行ってみましたら、これは大変な事だったのです。何故大変かと申しますと、ともかく普通の人は、成績優秀で選ばれて行く訳です。それが、日本の学校を落第したのが行ったなんていうケースは、後にも先にも私が初めてだったと思うんです。
 

行きましたら、ともかく教室に入っても先生がしゃべっている事が一言も分かりません。よくもこういうのが来たな、というような顔をみんなしてましたけども、ノートはもう落書きで、まっ黒けのけ、ですね。その頃は今の様にヴィデオやカセットがある時代でもありません。最初の半年位は、全然何やったかわからないみたいなものです。よく見ますと、授業で他の友達が皆宿題出してるんです。こっちは、その宿題があったという事すら知らなかった訳です。それでその晩、一所懸命もう必死になって字引を引き引きペーパー書いてですね、そして、翌日先生の所へ持って行きました。そして、やっと聞き取れたことは、
 「お前は、遅いからこれ受け取れない」
とそんな事なんですね。しかし、そのうちに要領も良くなって宿題出すようになりましたけれど、返ってくる紙がみな真っ赤なのです。添削で。そして一番最後には必ず、落第の「D」というマークが付いているのです。
 それが、取る科目、取る科目、みんな大体毎週宿題がある。または、小さい試験をしょっちゅうやる。ですから、日本の中学校、高等学校の受験勉強ならいざ知らず、大学と名の付く所へ来て、こんな勉強させられるものかと、いい加減頭に来たのですが、ともかくそういうことをさせられた訳です。
 
ケニヨン2年目級友と縮小
そうこうしているうちに、一年が終わりまして、そして、日本だったらどうなるんでしょうかね、成績表というのを新しい学期にもらうのでしょうか。学年が終わった時点で、成績表をもらったんです。驚いた事に、全科目「C」になっていましいた。つまり「合格」という事ですね。よくも合格させてくれたと、感激したのを今だに覚えています。
(写真:学友と雪のキャンパスで。ルームメートの黒人ボブは、優等生で、後にハーバード大学院博士課程へ進学し、教授となった)





ケニヨン2年目ルームメート、ボブと縮小

実は、十一年程前、アメリカのヴァージニア州、これはアメリカの東の方の州ですが、そこにある大学に、一年間教えに行ったことがあります。その時にその町の新聞記者が来まして、
 「日本の大学と、アメリカの大学のどこが違うか」という質問を受けたんです。そこで私が申し上げた事は、
 「日本の大学は、入るのが大変だと。入るのにものすごく難しい。しかしいったん入ったら出るのは、そう難しくない。ところが、アメリカの学校は入るのはいとも簡単だけれども、卒業するのは大変だ」
というような事を答えたことがある。これは後年教師になりまして、毎日宿題を出して、その一つ一つの答案とか宿題の紙にですよ、真っ赤になる位添削をして返してやるということは、これ日本の先生じゃちょっとやれない。特に大学の先生じゃ恐らく出来ないでしょうね。悪いけれど。一人位、特に指導した学生でしたら別ですけれど。
 そこで私達は、大学の教員やりながら考える事は、もう少し大学で雑用でも減らしてくれたら、学生の面倒見てやろうとか、或いは、学生というのは、どうせ自分の眼の前をベルトコンベアーに乗った商品の様に通り過ぎるのだから、そんなにかまう事はないだろう、あまりかまったら自分の研究ができないじゃないか、とかこういう考えが出てきます。従いまして、日本の大学生、日本の学校における教育で、学生がどうしてもこの放任の方にですね、さっき私は自由と規律なんて言い方しましたが、その自由も自由放任の方に取り違えて、そっちの方に、もし行くとしたら,その一半の責任は大学の先生の方にあるんじゃないかという気がする訳です。
 ところが、ご承知の様に、皆さん方のご令息が、大きくなって立教大学へ行きますと、入学式、卒業式、或いは神宮球場で、校歌を歌います。そこで歌われる校歌の各節は、最後に、
 「見よ、見よ、立教。自由の学府」
とこう「自由の学府」となっている訳です。それでは、ここでいう自由とは、どういう意味なのか。そういう事が問われて来ると思う訳です。実は私には、二人、娘がおりまして、二人とも立教を卒業致しました。一人は、ミッションスクール「立教女学院」から来ましたので、あれは全然受験勉強しなかった様ですが、もう一人の方は普通の公立高校から来たので、入学するまで一生懸命勉強していました。ところが、一旦入ってしまったら、サークルか何かに入って、あまり勉強しないのです。勉強しているの見たことない。それでもですよ、三年生位になると単位が全部取れてしまったらしいです。そして四年生は悠然と遊んでいるみたいです。まあ恐らく娘達は、ちょうど私がかつてそうだったように、今申し上げたように、自由というのは、放任の方、自由放任の自由と、そうとらえているふしがあったんだろうと思います。でもそういうのがちゃんと卒業出来ちゃって、しかも就職をして、そうしますと今度は、会社の方は、自由放任にはさせてもらえないものですから、今度は違う意味で規律をいまや覚えさせられていると、言えるかもしれません。
 ところが、欧米ではですね、自由という言葉は、これは努力して勝ち取るものという考え方があるのです。そして、それは勝ち取ったものですから、責任を伴うものという考え方がある。それはですね。歴史を振り返って見ますと正にそうなのです。一七世紀のイギリスの市民革命、次の世紀のアメリカの独立、フランス大革命、或いは今世紀に入ってロシア革命その他を見ましても、権利だとか、自由とか、そういうものは、黙って見ていたらくれるというものではないのです。これは、自分で取ってこなくてはいけない。取ってきた以上は、それを護って、護っていくためには責任を伴う。ですから私が冒頭に、教育というものは、自由というものが無ければ出来ないと言った、一つの側面にはそういうものがあるのです。
 ところが、私達日本人は、そういう言い方したらちょっと語弊があるかもしれませんが、戦後アメリカさんが、自由を与えてくれたみたいな面があります。どうも日本では自由というものは、私がそうであったように、自由放任の自由、責任を伴わない自由と考えがちなんですね。ところが、そういう考えで本当の教育が出来るのか、という疑問がわいていてくる訳です。
 車を購入縮小2
さて、私の学校生活に戻りますが、私は、英語が出来なかったんですが、それは、一年も二年もいれば、少しは出来て来ます。そして、三年になる頃には、自分でノートも取れるようになり、他人のノートを借りずに、自分のノートで試験も受けられるようになりました。それどころか、かえってアメリカ人の友達が、私のノートを借りるなんていう事にもだんだんなって来た。ところがそうなりますと、始めの一生懸命だった態度が薄れまして、適当にサボるという、また悪い癖が出てきた訳です。(写真:中古車を買うゆとりができた。アメリカの田舎では車は必需品)
 



車購入2縮小
三年生になると専門を決めるのですが、私が専門としたのは、歴史学、特に英国史でした。ところが、歴史学の主任の先生というのが、ユダヤ系のドイツ人で、ナチスに追われてアメリカに亡命してきた先生でした。それがいくつかの大学を回って、その小さな学校に来ていた訳です。さっき私は、アメリカの学校というのは、日本の中学校や高校みたいに、もう規律でめちゃくちゃに勉強させるという話をしましたが、さすがにドイツ人だけあって、他のアメリカ人の先生が及びもつかないような、厳しさなんです。この先生のゼミで、我々学生は十人位いましたが、最初の授業で、こういう事を言いました。ドイツ人の身体の大きな人でしたが、
 「私は、怠惰と知的不正直を憎む」
と。そして、私達が提出しますレポートだとか、試験答案だとか論文だとか、そういうものの全てにですね、最後のところに、この著作というか、レポートは、私が自分の責任で、自分の力で書いたものであって、他人から引用したら、必ず脚注でそれを書いた。つまり、不正直なことは一切していない。そういう事を書いてそれに自分の名前をサインする。それで出す。そういう事を求めるような厳しい先生だったのです。で、私達が論文を出しますでしょ。そうしますと、日本語の表現では、重箱の隅をほじくるなんて言い方しますが、この先生は、私達の論文かかえて図書館に行くんです。そうして一日かかって私達の出したレポートの本文と注を徹底的に洗い出して、そして不正直をやっているかどうか、調べ上げる訳です。そして、ノリとハサミで要領良くまとめたようなレポート出したらすぐに呼び出され、こっぴどく叱られる。そうしますと、我々若いいたずら盛りの年頃の、学生ですから、いろいろと悪い事する訳ですね。
 その一つ、私がやった事にこういうことがありました。ある学期のレポートに、明治の前期、つまり近代日本の始まりの頃の、日本の政府の事をテーマに選んで、レポートに書くという事にしました。先生は、結構でしょうという事でしたので。それで、実は私は何をやったかと言いますと、日本に手紙を書いて、日本で出ている参考文献、つまり日本語の本ですね、それを送ってもらったのです。そしてそれをまとめて適当に書いた。そしてだした。そしたら、先生がですね、そのサロモン先生といいますが、おもむろにそのレポートを開いて見るとですね、脚注のところ、みんな日本語の書物、論文なのです。だからチェックの仕様が無い訳です。さすがにダァーてな顔していましたが、こちらはヤッタぞってな感じで、意気揚々としていたんです。
 ケニヨン2年目縮小
ところが、二,三日しましたら呼び出しがかかったのです。どういうことかと申しますと、私の書きましたレポートの中に、これは、日清戦争が終わった時に、下関で条約締結があったのですが、
 「中国側の全権委員の名前が一部違う」と、こういう訳です。更に、締結されて、
 「署名された日付も違う」というのですよ。それで私、図書館に行って調べて見ますと、正にその通りなのです。先生の言う通りなのです。それから後が大変なのです。
 「お前はどうして欧米の先生方が書いた、日本の近代について書いた文献を使わなかったのか」と。そこで、私は、
 「日本の事は、日本人の学者の方が良く知っている。いちいち外国人が書いたものを読まなくても良いのだ」
と答えたのですね。そしたら、
 「ああ良い、じゃ図書館に行って、欧米の学者が近代日本に関して書いた文献、それを調べて、どういうところが不適当で良くないか、まとめてもう一本レポートにして出しなさい」と、(笑)それ書くのに一週間位かかったのを覚えています。
(写真下:3,4年になると余裕ができた様子。学友たちと盛装した折の写真も残っている)

ケニヨンで同級生と縮小



こういう事言いますと、これは典型的なドイツの戦前の学者です。家父長的権威主義者みたいに思えるかもしれません。わがままな独断専横型の先生に思えるかも知れません。ところが、自分自身もナチスに追われて来たという経験もあったのでしょうが、自主的主体的に、或いは自由に、私達が研究テーマを選ぶという事を大いに勧めるのです。
 今、丁度東欧からソ連にかけて大騒ぎになっておりますが、あの頃は、別の意味でアメリカが、共産圏に対抗していた時代で、マッカーシーという人が、赤狩りを盛んにやって、進歩的な学者が受難していた時代、そういう時代だったのです。しかし、私達はゼミで、やはりマルクスの本を読まないと歴史学の勉強が出来ませんから、マルクスを読みましょうという事言ったら、先生喜んでくれまして、それで私達ある学期のゼミは、それを読んだこともあるのです。それで、彼が口癖の様に言っていたことはですね、
 「自由というのは、責任と努力と、忍耐を伴う。自由放任の自由ではないのだ」という事です。彼がそれを、繰り返し言っていたのを思い出します。
 さて、どうも自分の事ばかり長々と申し上げて、皆さんには何等お役にたたない話の様に思いますが、立教の方に話を戻したいと思います。
 「いったい立教ではどういう教育をしようとしているのか」そういう事を皆さんはお尋ねになりたいのだろうと思います。さっき私は、立教は「自由の学府」だという事を申しました。ただその自由というのは、決して規律と矛盾しない自由。或いは、責任を伴う自由。そう言えるだろうと思いますね。そういう自由をつかみ取って、児童、生徒、学生の一人一人が、小中高大の課程を経てですね、一人前の立派な人間としてこの日本の社会に出て行ってもらおうと、そういう事を私達は、少なくとも私は、お願いしたいと思うのです。
 ところが、さっきからくどいように申しておりますけれども、自由というのは、元来、厄介なものなのですね。自由であるという事は、必ずしも容易な事ではないのです。特にこの日本という国は聖徳太子の時以来、
 「和をもって尊しとなす」という文化ですから、一人だけ他の人と違う行動をとる、これは大変恐ろしい事なんです。皆が黒い服を着ているのに、結婚式の時なんかに、私だけ赤い服着るなんて訳にはいかないのです。皆と違う事をやるというのは恐ろしい事なんです。反対に、皆がやるんだったら、少々おかしくっても、悪い事であっても、恐ろしくなくやれる、という面がやっぱりあるんです。
 そこで、従いまして、終戦前でしたら、
 「鬼畜米英撃ちてし止まん」という事で、アメリカや英国はとんでもない敵だと、こうやりました。それが、今は反対に、
 「戦争賛成だ」なんて言ったら、あいつ気狂いだと思われますよね。日本はそういう文化圏であるのです。

ケニヨン総長宅でのディナーに招かれて縮小
ところが立教学院の創立者であったウィリアムス主教という方は、これ、私の解釈によるとですよ、伊藤先生とか他の先生方は違う解釈なさるかもしれませんけれども、私の解釈によると、そういう付和雷同的な日本人では無くてですね、自分の足で立って、自分の頭で考えて、そして、どんな危機に陥っても、直面しても、自分の決断で、行動し得るような人間、それを新生日本のために育てたいと、思ったのではないでしょうか。ですから、ちょっと変な言い方になるかもしれませんが、良い意味での個人主義、自分だけ都合が良ければ良いという意味での個人主義ではありません。或いは、良い意味での一匹狼とでも言いますか、そういう者を作ろうとしたのではないかという気がするのです。
   (写真:ケニヨンの総長夫妻に招かれた夕食会で) 

ケニヨン総長宅でのディナー出席者縮小
実は、明治二十三年、さっき小学校の時に、教育勅語を暗記させられたと申しましたが、この教育勅語が出たのが、明治二十三年ですが、その翌年、二十四年の正月に、第一高等中学校、今の東京大学の教養学部の前身に当たるのですが、その第一高等中学校で、騒ぎが起こったのです。ご承知だろうと思いますけれど、これは、内村鑑三という人が、学校に配布されたきた勅語に頭を下げなかったという訳です。彼が書いた物を見ると、頭を下げたと書いてあるんですけれど、頭の下げ方がどうも充分でなかったみたいなのです。けれども、私がここでちょっと指摘したい事はですね、この第一高等中学校というのは当時の日本の、恐らく知的エリート中のエリートを集めた様な場所です。恐らく自分の足で立って、自分で物事を考えられる人達の集団だと思うのです。しかしその人達が、内村のやったそれを見てですね、
 「この非国民、不忠者の内村」という形で、先生もアジりますし、学生も騒ぎ立てる。そのうちに新聞、雑誌等も書き立てる様になって、内村はとうとう辞職すると、こういう事件があった訳です。(写真下:左二人は総長夫妻)
 ケニヨン総長夫妻と縮小
ところがこの時、この同じ事件に巻き込まれまして、第一高等中学校を辞めさせられたというか、辞めざるを得なかった人がもう一人おります。木村駿吉さんという人です。この木村駿吉さんは、すぐその後他の学校に移りたかったのだけれど、他の学校は皆、政府と世論を恐れて、手を差し伸べない訳です。ミッションスクールもそうでした。そういう中でこの木村さんを採用した学校が、実は、創立者ウィリアムスの立教学校だったのです。
 立教学校は、内村鑑三事件に関与したと言って指弾された木村さんを採用した訳ですね。そういう意味では自由の学府というものの面目みたいなものが、明治二十三年にはあったと言える訳です。それが、後の歴史の中で、少し薄れてきて、立教の関係者も不和雷同的に、特に戦争中はなったみたいなところがあると思いますが、とにかくそういう伝統を持ったのが、この立教であると言えると思うのです。
 そういう事を考えました時にですね、この間うちからテレビを見ていまして、最近、どうも日本だけが不和雷同的ではないんじゃないかという気がしてきたのです。なぜかと言いますと、ご承知の様に東欧とか、ソ連で今大きな騒ぎがありますでしょ、そうしますと大きなレーニンの像が引き倒されて行くんですよ。あれ私達あまり勉強しない学生でしたけれど、東京にいた頃なんか、もうこの世界は、このあと、色々な近代的な発展をして行く過程で、ソ連が世界の指導国家になるだろうと、皆で言い合っていたわけです。それが、ああいうのを見ていますと、今のソ連では、学生、国民がウワッと騒いで、ソ連の文化、思想にとって、神様みたいなレーニンの像を皆でワッショイ、ワッショイと、こう引き倒してしまうんですから。
 それから、もう一つ思い出した事を言わしていただきますと、さっき申し上げた様に、私は昭和二十三年に立教に来て、そして昭和二十六年にアメリカに渡ったのですが、横浜を出まして約二週間後にハワイに到着しました。その時は、アメリカ人の牧師さんが迎えに来てくれたのですが、彼が私を連れて行ってくれた所が、パールハーバーだったんです。行かれた方もたくさんいらっしゃると思うんですが、アリゾナ号っていうのが沈んでいるんです。そのアリゾナ号の中には日本軍の攻撃で、戦死した軍人たちが横たわっているわけですよ。あれを見ました時に、私は戦争中に神戸で爆撃を受けてひどい目に合ったのですけれど、その爆撃の出発点はここだったのだなと思った訳です。
 
その後アメリカ大陸に行き、ケニヨンという大学で、さっき申し上げた様な事になりました。ところが、四年間が終わりまして、その学校は小さい四百五十名の学生数ですから、立教小学校より小さい訳ですよ。そこで皆お互いが顔知りあっている、そういう学校の中で、とうとう最後まで私に口をきいてくれなかった学生がいるんです。それは後でわかったんですけれどお父さんが、太平洋で死んでいるんですね。だからどんな事を教えられたとしても、人間として、自分の父親を殺した国民の学生だという事になれば、「許せない」みたいな事あるでしょうね、きっと。
 そういう事、見てたものですから、さっき私に厳しく教え込んだそのドイツ人の先生の話をしましたが、この先生の事がまた頭に浮かんできた訳です。皆がレーニンの像をこう引き倒したり、皆が戦争の相手の国を憎んだりと、そういう文化の中で、この先生はですね、こういう事を言っていました。この人は、ユダヤ系の人でしょう。ドイツを逃げ出してアメリカに来た人です。自分の親戚で、逃げ損なって、結局ナチスに捕まって、殺された人も何人かいるんですよ。ところが、ついぞこの先生からはナチス・ドイツを断罪する言葉は出て来なかったのです。
 勿論彼にとって、それは人間としては憎いでしょう。しかし、学問としては、少なくとも学問の場では、歴史家としてやれる事は、そういう証拠を出して、その証拠に基づいて、判断は読む人がすると、これが本当の書き方だろうと自分は思うと、彼はそう言っているんです。そして、私達にどう教えたかというと、ともかく断罪するなと、自分の価値判断に基づいて他人を断罪するな、他人を受け入れよと、そういう言い方を彼はしていたんです。
(写真下)卒業式
 ケニヨン卒業ガウン&パイプ0028
そんな事を思い出して、考えてみますともう四〇年前の話です。しかし、こう東洋からヒョコヒョコやって来て、あんまり英語も喋れない男をですね、一応受け止めてくれて、そうしてあれだけ厳しく私に接してくれたというのは、もし無関心だったらやりません。そういう事は、私に対して本当に関心を持ってくれている、まあ彼自身はドイツ人だから日本と、まあドイツから逃げて来ているわけですから、必ずしも日本と一緒に戦ったドイツとは違うのでしょうけれど、日本の学生に対しても、これを受け入れて、これに思いやりを持つという事を彼は示してくれたのではなかったかと思うのです。

 さて、私は、この立教小学校に、子弟をお預けしている、ご父兄にご挨拶している訳ですが、私は立教学院の小学校、中学校、高等学校、それから大学という四つの学校を見ていました時に、今私が申し上げた様な意味でですね、「自由と規律」というか「自律と他律」というか、これ等を本当にうまく調和させる事の出来る可能性を、一番持った学校というのは、小学校ではないかと思うのです。
 小学校の子どもさんというのは、一番親に対しても信頼心を持っていますし、従順ですし、と同時に規律にも順応します。それと同時にバイタリティーを持っています。ですから、自分で選びとって、そして自分のやりたい事を本当に発展させる。それが子どもであると思うのですね。
 ただそういう子ども達を、先生が、或いは先輩が、或いは父兄が、導いていこうとする時に、もう一度この「自由と規律」という所にかえっていただきたいですね。自由は、放任でない自由に、規律は、子ども達に反発させるような強制にならない様な規律に。そういうものをうまく、バランスを取りながら、教育出来たらいいなあと、思うのです。そういう規律という事を考えると、私、兵庫県の出身なものですから、一番頭に来たのは、去年ですか、兵庫県の高等学校で起こった事件です。学校に遅れそうになって入って来た女の子を門をパーッと閉めて、頭をはさまれて亡くなった女子学生がいましたよね、規律というのは本当に難しいんです。どういう具合にこれを守るかという事が、そして自由を束縛しない形で、本当に子ども達の教育の足しになるのかという事を考えるのは難しいです。
 ケニヨン卒業時のアルバムより縮小2
さて、最後に話をまとめたいと思います。今日は、ウィリアムス主教に関してはほとんどしゃべる事が出来なくて申し訳ないと思っています。ただここには、前の校長先生の伊藤先生始め、ウィリアムスについて書かれた本も沢山ありますので、割愛させていただいた訳ですがただ一つだけウィリアムスについてお話ししますと、恐らくこのウィリアムスが今ここにいたとしたら、その「自由と規律」とか、「自律と他律」という様な事、そしてこれをどう結び付けるかという事、お前勝手に簡単に言っているけど、
 「それは簡単にはやれないんだぞ、人間の力ではなかなか難しいんだぞ」
と、言おうとしているんではないかと思うんです。私達は、昨年新座に大学の校舎を完成させました。そしてその校舎の入口の所に、自由に関する言葉が一つ出ています。どういう言葉かといいますと、それは聖書から引用したのですが、ヨハネ伝の八章の三十二節からとった言葉で、
 「真理はあなた達を自由にする」
とこう書いてあるのです。皆様のお子様達が大学まで行かれたら、ご覧になると良いと思います。ただあれ見ていますと校舎に入って勉強したら、自分は自由になれるのかなあ、なんて印象受けるのですが、ヨハネが書き、ウィリアムス主教が、この言葉で理解しようとした事は、「真理」という抽象名詞ではなくて、「真実な方」つまり人格を持った方なのです。あの言葉は彼に言わせるとそれは「イエス」なのです。ですからイエスと出会うことによって初めて自由であるという事と、規律を持つという事、放任ではない自由と、強制に到らない規律、それを一人の人間の中で、保つ事が出来るのではないかなあという気がします。どうも私の思い過ぎであるかもしれませんが、今日はそういう事で、私自身の「自分史」と言いましょうか、それを長々と申し上げてお聞き苦しい事も多かったと思いますけれども、この立教学院が小学校から大学まで通して、お子様方を教育しようという、その指針というか目標というか、それを私に言わせると、今申し上げた様な、事だろうと思います。どうもご静聴ありがとうございました。(写真はケニヨン卒業記念アルバムより)

(これは、1991年9月7日、立教小学校PTA総会での講演会を録音より起こしたものである。文責・田中 司)
 
  立教小学校 PTA通信 特集号 第四四巻 第三号 一九九二年二月発行
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