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ケニヨン・カレッジの創設者、ファイランダー・チェース

ファイランダー・チェイス
―アメリカ西部とケニヨンと立教とー
 

八代崇の随筆から

ケニヨン・チャペル ブログ用 IMG-0030
                   (写真はケニヨンのチャペル)


The first of Kenyon’s goodly race      
Was that great man Philander Chase;
He climbed the Hill and said a prayer,
And founded Kenyon college There.

オレ達しゃれたケニヨン一族の
ご先祖様こそファイランダー・チェイス。
山に登り、祈りを捧げ、ヤツは
ケニヨン・カレッジをつくってしまった。

 羽田をジェット機で飛び立つと、今なら十四時間ほどで、太平洋をひと飛びにしてサンフランシスコに着く。飛行機を乗り継ぎ、眼下に広がるアメリカ大陸を眺めながら、六時間も飛ぶとオハイオ州コロンバスに降り立つ。昔はこの広大な大陸を人は何日もかかって幌馬車で旅したのだと思うと、科学技術の進歩に感心すると同時に、何か一抹の味気なさを覚える。

 コロンバスからバスに乗って道を東北にとって一時間も揺られるとマウント・バーノンという所に来る。あとは交通機関がないのでタクシーに乗り、道を東にとって五マイルほど行くと丘陵地帯の小さな村に至る。八千エーカーもの膨大な土地の中の林の間に点在する十八世紀英国風の建物がやがて見え始める。学生数千名ほどの小さな大学、ケニヨン・カレッジだ。村には郵便局と銀行と食料品店と酒場が二軒、夜ともなれば集まってくる学生はビールの杯を手に歌い始める。冒頭にかかげたカレジ・ソングである。

 チェイスが大学を創設した1824年には、オハイオはまだ西部の名残りを多分にとどめていた。13州がイギリスからの独立を宣言した1776年からすでに半世紀が経過していたが、アレゲニー山脈以西の無限とも思える広大な土地は、まだあまり開拓が進んでいなかった。1803年、第17番目の州として合衆国加盟を許されたオハイオも、ニューヨークやニューイングランドの人々の眼には森と泉とインディアンの土地でしかなかった。

 フレッシュマンのビーニーをかぶって10
1817年の春、オハイオの原野を年の頃は不惑を少し越えたかと思われる大きな図体の男が、馬にまたがってやって来た。チェイスである。現在のサレムの町の周辺に数家族が住み着いていたのを見出した彼は、人々を集めて礼拝をし、神の言葉を説いた。米国聖公会の西部への宣教活動が開始されたのである。

 独立を獲ち得て意気盛んな新興国アメリカに較べて、聖公会は沈滞気味であった。ヴァジニア州を中心とした南部では、聖公会は1606年のジェームス・タウン入植以来の伝統を誇り、ピューリタンのニューイングランドに充分対抗しえた。しかし独立戦争は、本国と母教会をとるか、植民地と運命をともにして母教会との絆を断ち切るか、の二者択一を聖公会に迫ったのである。多くの人々が本国と母教会への忠節からカナダに去っていった。アメリカにおける聖公会の枝が立ち直り、独自の祈祷書と法憲法規をもつ自立教会になるのには十数年の歳月を必要としたのである。

 教会内部の機構確立に忙しかった米国聖公会が眼を茫漠たる西部に向け得なかったとしてもいたしかたなかったであろう。将来を見通して大きなヴィジョンをもちえた指導者にも欠けていた。いずれにしろ、メソジストやバプティストの牧師たちが西部への移住者の幌馬車に乗って伝道の旅へ出かけたのに対し、聖公会の牧師たちは三時のティーを欠かさなかった。そういった情況の中で最初に西部への伝道の必要を説き、自ら強力な指導力を発揮したのがチェイスであった。(写真はフレッシュマンのキャップをつけた一年生)
 ケニヨン近くの広場で洋子と011
チェイスは1775年12月14日、ニューハンプシャ州ユーニッシュに会衆派の農夫の子として生まれた。幼年期を農場で過ごしたチェイスは生涯農夫としての気質を備えていたと言ってよい。1791年ダートマス・カレッジに入学した彼は、ふとした機会に聖公会の祈祷書を手にし、いつしか聖公会の魅力に取りつかれてしまった。彼の聖公会への強い関心は、聖公会に転会するだけでは満足せず、聖職になることを決意させた。もっとも当時は神学校もなく、周辺に教えを請う先輩もいなかったので、1796年、結婚したばかりの妻を伴ってニューヨーク州のオーバニーに赴き、英国人聖職者トーマス・エリソンの門を叩いた。突然の訪問に驚いたエリソンも、チェイスの熱意と才能を見込んで聖職按手の準備をすることにした。二年後チェイスは、プロヴォースト主教より執事に按手された。(写真はケニヨンの近くの広場で、洋子と)

 チェイスの最初の任地はニューヨーク州の中央部であった。一年半ほどの間にチェイスは四千哩を旅し、オーバン、ユティカ、カナンデグア、バタヴィアなどの町に教会を建て、三一九人の幼児と十四人の大人に洗礼を施したと言う。その後ニューオルリアンズ、ハートフォードの教会を牧会した後、1817年、四十二歳にして西部への伝道を志したのである。

 まだ雪の深い、春の遅いオハイオで、ウィンザーからラヴェンナ、ゼーンズヴィル、コロンバスと歩を進めたチェイスは、六月、ワージントンに本拠を構えた。翌年いま一人の聖職者の助けを借りられるようになったチェイスは、二人の聖職者と九人の信徒から成る教区をつくり、自ら選ばれてその主教となった。

 主教となったチェイスが痛感したことは、神のぶどう園における働き手の不足であった。いつの時代でも、未開の土地に、恵まれない条件で宣教の旅に出る者は少ない。東部の教会の支援を期待しえないと感じたチェイスは西部で働く聖職者養成機関をオハイオにつくろうと決意した。しかし、アメリカ聖公会には、チェイスのような冒険家の野心を満足させる余分な金はなかった。アメリカ社会も今日の個人所得世界一の富める社会ではなかった。母教会からの募金を心に決めたチェイスは、1823年10月、総裁主教ホワイトを始めとする主教たちの制止にもかかわらず、英国への長い旅に出かけた。ケニヨンの学生たちの歌は続く。

ケニヨン近くのプライベート飛行場で009
He dug up stones, he chopped down trees;
He sailed across the stormy seas,
And begged at every noble’s door,
And also that of Hannah More.

The King, the Queen, the lords, the earls
They gave their crowns, they gave their pearls
Until Philander had enough
And hurried homeward with the stuff.

岩を掘り上げ、木を切り倒し、
嵐の海を渡って、金を求めて
貴族の門を叩き、ヤツは
ハンナ・モアからも頂戴した。

王も妃も公爵も子爵も、  (写真はケニヨン近くのプライベート飛行場で、洋子と)
王冠や宝石を惜しみなく、
ファイランダーが満足して
国に帰るまで与え続けた。

十一月二日にリバープールに上陸したチェイスは八カ月半英国にとどまり、募金のキャンペーンを続けた。貴族風の英国人主教を見馴れた人々の眼には、チェイスはオハイオの山奥から出て来た熊男のように映ったであろう。しかし身の丈六フィート四インチ(約一九〇センチメートル)、がっしりした肩幅のチェイスは、教養のある礼儀正しい英国人主教の与え得ないものを英国人に与えたのであろう。間もなく寄付を申し込む人が増え、帰る頃までには三万ドルを手にすることが出来たのである。

 チェイスの学校は、翌一八二四年、ワージントンの彼の家で三十名の学生をもって始められた。州内各地をめぐってキャンパスにふさわしい土地を探し廻ったチェイスは現在の地を手に入れた。村の名となったガンビヤは英国の後援者ガンビヤ卿の、大学の名となったケニヨンは同じくケニヨン卿の名を取ってつけられた。(ガンビヤとケニヨンについては、庄野潤三『ガンビア滞在記』中央公論社、昭和三四年を参照)もちろん当時は馬車も通らぬ丘陵地帯であったから、チェイスと学生の苦労も大変であったに違いない。

シカゴのテニスコートで22
He built the College, built the dam,
He milked the cow, he smoked the ham,
He taught the classes, rang the bell,
And spanked the naughty freshmen well.

ヤツはカレジを創め、ダムを造り、
牛の乳をしぼり、ハムを焼き
クラスを教え、ベルを鳴らし、
腕白な一年坊主のケツをひっぱたいた
(写真はシカゴのテニスコートで、洋子と)

こうして始まったケニヨン・カレジは、アレゲニー山脈以西の最初のカレジとして、ほどなく多くの学生を引きつけるようになり、秀れた卒業生を世に送り出すようになった。第十九代大統領ラザフォ-ド・ヘイズもその一人である。

ケニヨンはアメリカ中西部の教育界に寄与しただけでなく、米国聖公会が日本で教育事業を始めると深いかかわりをもつようになった。現在立教はケニヨンを国際交流制度に基づく提携校として毎年一名の学生を派遣しているが、両校の関係は明治二十五年、ケニヨンの卒業生チングが立教学校の校長に就任した時に始まる。チングが立教をどのような学校にしたかったかは、その報告書信(『立教学院八十五年史』二六-二九頁)にうかがえる。内村鑑三不敬事件に関与して第一高等中学校を辞職した木村駿吉を、世論の反対を押し切って採用したチングには、何ものをも恐れぬチェイスの教育方針が継承されていたのではないだろうか。

チングの薫陶を受けて育った日本聖公会の指導者たちのひとりが元田作之進であった。明治十五年、大阪でチングより受洗した元田は、その後、師のすすめでケニヨンに学び、さらにペンシルバニヤ、コロンビアで研鑽を積み、帰国後明治二十九年に立教のチャプレンに就任、以後大正十二年東京教区主教に選出されるまで、中学校長、大学長を歴任した。

洋子卒業時、デニソンにて21
いま一人立教との関係で忘れられないケニヨンの卒業生にライフスナイダー師がいる。明治四十五年三月、タッカー総理辞任のあとをうけて立教学院総理に就任したライフスナイダーは、日米開戦によって帰国を余儀なくされた昭和十六年までの三十年間、立教の発展のために誠心誠意尽くした。彼の脳裏からも、チェイスによって始められたケニヨンの思い出が離れなかったに違いない。

ケニヨンと関係の深い立教人としては、他に金子尚一氏、先般逝去された佐々木順三氏がいる。戦争中断ち切られた立教と米国聖公会の関係回復に努力された佐々木先生の功績を讃えて、ケニヨンは名誉学位を贈った

ケニヨンの創始者として立教とも無関係ではないファイランダー・チェイスも、大学の基礎が固まり、落着いた雰囲気がかもし出されるようになると、ケニヨンを去って行った。単身英国に渡って、馬鹿にされようが気にせず、王侯貴族から金をかき集め、自動車もない時代に馬にまたがって荒野を駆けめぐり、百姓仕事に精を出すチェイスは、しょせん書斎に納まっているタイプの人間ではなかった。野人チェイスは教員や学生の意見を辛抱強く聞くといったことは性に合わなかったし、教員や学生の側も朝の四時から起きてガミガミ叱るカミナリ親父を次第に敬遠し始めた。一八三一年、チェイスはケニヨンを去り、オハイオ主教の地位を辞した。
(写真はデニソン大学で、洋子の卒業式にて)

しばらくミシガンの田舎に引っ込んだチェイスは、いつまでもじっとしてはいなかった。静かな祈りの人というよりは、モーセのように神の命ずるままに未知の世界に飛び込む行動の人であったチェイスは、一八三五年、三人の聖職者と数名の信徒によって始められたイリノイ教区の主教に選ばれた。年齢はすでに六十に近く、教区主教としての月給も保証されてはいなかったが、チェイスは勇躍任地に馬を進めた。当時のイリノイの状態をチェイスはケニヨン卿に書き送っている。

「私はいま一度新しい教区づくりに精を出しています。このヘラクレス的大事業を助けてくれる人間はほとんどいません。この教区の面積はイングランドとウェールズを合わせたよりも広いのです。土地は豊沃ですが入植者は少なく、お互いに十哩から十五哩も離れて住んでいます。川には橋はなく、渡れない沼地がいたるところにあります。」

ケニヨンで名誉学位授与される0001
しかしチェイスはめげなかった。一八四五年までには二十五人の聖職者、二十八の教会、一千人の信徒をもつ教区にまで育て上げたのである。一八五二年九月二十日、チェイスはその七十七年の地上の生涯を終えた。最後まで伝道戦線の第一線に立ち続けたチェイスは、ニューヨーク、オハイオ、イリノイにわたる未開の西部を米国聖公会の有力な教区に仕立て上げたのである。それにもまして意義深いのは彼を追い出したケニヨン一族の後裔がいまも歌う歌であろう。






名誉学位を受け、キャンパスにて洋子と







And thus he worked with all his might
For Kenyon College, day and night;
And Kenyon’s heart still holds a place
Of love for old Philander Chase.


こうしてヤツは全力を傾け
ケニヨンのために日夜働いた。
ケニヨン人の心から
チェイス爺さんへの愛が消えることはない。

(写真上:名誉博士号授与式の際スピーチする崇
 写真右:授与式後、キャンパスにて洋子と)

「THE QUARTERY RIKKYOU
 Summer 1976」に掲載された随筆。

 経済的にも、勉学の上でも苦しい四年間を耐え抜いた崇がやがて、ケニヨンを母校として心から愛するようになったことがこの文から伝わってくる。崇がよく口ずさんでいた、このカレッジ・ソングの歌声も聞こえてくる。

1991年、崇の還暦の年にケニヨンから、
 彼の功績を称え、名誉博士号を授与された。 洋子記

八代崇主教召天3周年記念に寄せて

八代崇逝去3周年記念式
説教  竹田真東京教区主教

 八代崇主教の逝去3周年の記念の聖餐式に説教者としてお招きを受けたことを光栄に思っております。先日甲籐先輩からお招きを受けた時は、八代主教と親しくしていた者が集まって、水入らずの記念をしたいと言うことで、説教という言葉を使わずに、「ちょっと話をしてくれ」と命令されましたので、気楽な話をするつもりでやって参りました。ところが、案内状には「説教者」となっており、「首座主教」という肩書が付けられていました。非常に緊張しております。しかし、(そういうわけで)今日の私の話は八代主教とのパーソナルな関係が中心になると思いますが、お許しいただきたいと思います。

 八代主教とのお付き合いは大分古く、中学生のころからのことと記憶しております。お兄さんの欽一主教も私が中学生だった頃、すでに神学生で、この方はかなり威張っておられる方で、私などは殴られたこともあるほどです。古い付き合いとはいえ、八代欽一、崇兄弟とは必ずしも表面的には仲睦まじいお付き合いとは言えなかったようであります。お互いに主教になっても、気持の上では、その頃からの関係が続いていたようです。

 私がもっているアルバムには、八代崇主教と一緒に撮った写真がかなりあります。主教会の時などの威儀を正している写真以外は、どういうわけか、すべて一緒に飲んでいる酒の席の写真です。誰かそこに居合わせた人が、意図は分かりませんが、撮ったのだと思います。
  
竹田主教と飲む2
八代主教は同労者として霊的な友人であったと確信していますが、その交わりの〝霊的“は信仰的スピリットであるよりも、〝液体のスピリット”の交わりの方に偏っていたのではないかと思います。このことを、私は反省しながら申し上げているのではなく、八代崇主教の偉大さを学ぶことができたのは、このような席での交流だったと信じております。従って、今日の話は、そのようなスピリットの交わりの経験からの追悼の言葉になりますのでお許しを頂きたいと思います。(写真:中央 八代崇、右端 竹田主教)

 
 八代主教の健康の具合が悪くなったのは、1980年代の終わり頃だったと思います。私が主教になる以前は、聖公会の教理部や神学教育の会合でのお付き合いでした。そのような時もセッションが終わると、飲む機会が多かったようです。私が主教になって間もなく、私の事務所を訪ねて来られました。東京教区の聖職をひとり北関東に譲ってほしいという、話合いのためです。その時ちょうど事務所に贈り物のウィスキーがテーブルの上に置いてありましたので、ちょっと飲んで行きませんか、と言うと、例により平然として、まだ昼間だったのですが、「一杯頂きましょう」と始めました。結局一杯ではなく、杯を重ねることになり、聖職の人事の交渉より長くなり、愉快に話したことを覚えています。
 
 竹田主教と飲む 2縮小
八代主教は立教にいた頃は、池袋に行きつけの飲み屋があって、そこにも何回か御相伴にあずかったこともあります。健康を害される、かなり以前から、一緒に飲んだ時には何回も「俺は66で死ぬ」と聞かされたことを思い出します。彼は1931年生まれで、亡くなったのは1997年、正確にいえば65歳で1年予告より早かったと言えますが、数えで言えば予告が当たったと言えます。どのような根拠でこのような予告をされたのか、神のみ告げであったのか、歴史学者としての深い瞑想からの発想なのか、あるいは自分の医学的診断によるのかよく分かりませんが、その頃から、何か思うところがあったのかも知れません。
(写真:右端 竹田主教 その隣は武藤京都教区主教)

 
主教という職務はなかなか精神的、肉体的ストレスが大きい仕事なので、その精神の圧迫を紛らわすためにアルコールを飲むことが多いのです。海外の主教でもアルコール中毒にかかる主教の話を時々聞きます。しかし、八代崇主教の場合は違っていたと思います。彼は、酒を酒として、楽しみながら飲みました。泥酔はしません。静かに飲んでいます。一般の主教がストレスとなる教会の仕事の思い煩いなどは、八代主教にとっては本質問題ではなかったのです。
 
 そのような交わりを通して知らされた八代主教の姿は、一方においては極めて謙遜な姿勢を貫いた聖職であるということであります。ところが、他方、いつも、どんな事態に直面しても悠然としている、悪く言えば(気の小さい私のような者から見れば)図々しいと思われるほどの、主教でありました。教会の一つや二つ潰れてもどうっていうことはない、聖職人事で部下の聖職や会衆に不平不満があっても意に介さない、そういうような態度で教会の教導職を執行されたようです。教会史の学者であると同時にいつもその歴史を信仰的に、神学的に反省されて、その職務と取り組んでおられました。
 
 そういう意味で彼はいわば「ガマリエル主義者」でありました。「計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは出来ない」という歴史観です(使徒言行録5:38-39)。彼の歴史観には、教会の歴史は神によって動かされているという信念が ありました。
  
 普通の歴史学者と違って彼の信念、ないしは信仰がありました。そこには使徒から伝承された信仰を伝えるための、神が制定した器というか、パイプがあり、それが聖公会の歴史的主教制に基づいた聖職制度であるということです。その制度そのものも不変なもので、従ってこれは安易に変革すべきものではないというのが主教の主張でありました。そのような主教職を担っていることが彼の誇りであり、また聖公会の主教として命をかける、神から委託された使命だと自覚されていたようです。
 
 同時に八代主教は、教会の基礎は教団教派を超えた「普遍的教会」であること、つまり神の教会をこの歴史的実態として教会こそ『天下の聖公会』であると認識していたということです。ローマ・カトリックもメソディストもこの超越した普遍的教会の下にある教会なのです。このような教会の認識は、昔のヨーロッパ的また英国教会的な教会観です。アメリカという新世界に行くと、もう教会は教派の教会になってしまいます。かつての英国では、ローマ教会もメソディストもバプティストも、英国教会の教区の中に包含された分派教会(セクト)でした。このような教会観は、昔のアングリカンのエスタブリッシュメントの立場に立っていたようです。
 
 カンタベリー大聖堂 油彩 八代崇OR1103310046
一口で言えば八代主教は、かつての英国教会のエスタブリッシュメントの立場に立つ、聖公会の聖職だったと思います。   1970年代にはやった言葉を使えば、カトリック教会の「体制派」の精神を持っていました。エスタブリッシュメントに対抗する、いわゆる反対派を嫌いました。ですから、八代主教はアングリカン(聖公会)の主教になるべく生まれた男です。そのことはおそらく自分でも自覚していたようです。生まれながらの「紫」、「紫」の似合う男でした。( Becomes purple, Born purple) 格好の良い、アングリカンダンディーで、ジェントルマンの格好をした聖職でした。残念ながらこのような姿の聖職は日本聖公会はもちろん、いまでは英国でも次第に見かけられなくなりました。彼は、着るものや履くものはあまり頓着しませんでしたが、アングリカンのエリート精神をもって、いわば、その格好も精神もアングリカンの Dandyismを身につけていました。「聖公会は美しく、秩序と品格のある教会であるべき」という信念の持ち主でした。この点で、聖公会を俗っぽく(世俗化)、民衆化し、反体制派として教会の品格を落とす動きの元凶だった私のChurchmanshipとはかなり違っていました。(崇による油彩・カンタベリー大聖堂)
 
 彼は、聖公会の主教はそのようなエリートであるがゆえに、一般庶民とは一線を画しながら、しかし同時に指導者エピスコペを担うものとして、民衆の救済のための奉仕に命をかける使命を負わされているという信念で主教職に献身されたのです。(noblesse oblige!)。ここに八代主教の主の僕としての謙遜と、教会を教導するエピスコペとしての権威、悠然さの根拠がありました。

 彼が、何が起こっても平然としいるのはこのような信念からだったと思います。普通だったらパニックになるような危機や行き詰まりに直面しなければならない事態になっても、平然と、まず一杯飲んでからおもむろに腰をあげる、そのような大人物の姿勢を持っていました。「なるようにしかならない」という歴史観、じたばたしても仕方がないという態度がありました。そのような態度で主教職を執行していたので、ある時には成り行きまかせ、という風に批判されることがありました。

 同時に、もう一つの八代主教らしい歴史観を持っていたようです。つまり歴史というものは人間の弱さに制約されて、現実は決して理想通りにはいかないものという、悟りを持っていました。女性聖職按手には反対していましたけれども、それは聖公会主教としての反対です。決してローマ・カトリック教会に転回するなどといいうことは夢にも考えていなかったようです。「そのうちローマ・カトリックもコロッと変わって、女性司祭を決めるかもしれないな」などと、まじめな女性司祭批判者が飛び上がるようなことを、アルコールが入ったときなどには平気で語ってしまうことがありました。
 
 歴史というものは、神が支配する聖なる歴史だからこそ、謙遜に従わなければならないということと、理想的にはいかない、弱い人間的制約のもとにある歴史の中に置かれているという謙遜な現実主義でした。そのような歴史の中で、自分の肉体的制約、地上の人生の最後の行き詰まりを平然と受け止めながら、神に召されました。最後の66歳で終わるという見通しは、残念ながら1年早すぎましたが、日本聖公会のダンディーな主教は、神のもとに呼び戻され、いまや永遠の愛のもとで平安に休息しているものと信じます。



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