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忠実な僕

忠実な僕(しもべ)」
    九州教区主教 飯田徳昭  
1997年4月5日 日本聖公会、北関東教区合同葬 説教

父と子と聖霊の御名によりて、アーメン
初めに聖書の一節を拝読いたします。
「マタイによる福音書第25章21節:忠実なよい僕だ。良くやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」
 聖パウロ礼拝堂新座キャンパス
私たちは今日、故ヤコブ八代崇主教の生と死を祝い、神を賛美し、ご遺族の上に慰めあらんことを祈るために、此処に集まっています。

 三月十一日からエルサレムで開かれた全聖公会の首座主教会議に、病床にあられた八代主教に代わって、首座主教代務者として出席している最中に、主教の訃報に接しました。カンタベリー大主教の発意で、全世界の首座主教が追悼の祈りに加わり、米国聖公会のブラウニング総裁主教が八代家との深い縁について語られました。聖公会の全首座主教が一堂に会して追悼すると言う異例のことでありました。

 私自身は、あるいは首座主教会議の様子を八代主教にご報告できるかもと思っていましたが、二月十一日に志木で開かれた日本聖公会の主教会の冒頭で、主教全員でお見舞いし、主教会が終わった時にその事を御報告に伺ったのが、最後のお別れとなりました。その折に私に祝祷を求められたのが、私がお聞きした主教の最後の言葉となりました。

 ヤコブ八代崇主教は、故八代斌助主教と民代ご夫妻の次男として、1931年に神戸で生を享けられ、立教大学予科を経て、米国ケニヨンからヴァージニア神学校に進まれ、聖職に按手されました。更に、カンタベリー聖オーガスチン・カレッジで研鑽を積まれ、京都教区八木基督教会の牧師を経て、1971年立教大学に移られ、1986年まで文学部の教授の傍ら、学生部長、体育会長を勤められました。1985年に北関東教区主教に聖別されてからも、立教学院の院長、理事として奉仕されました。私も丁度その頃立教大学のチャプレンでしたから、お交わりを頂き、また主教会の同僚として色々とお教えを頂きました。
 神学博士ガウン姿IMG-0184
その間、1957年に洋子夫人と結婚され二男二女をもうけられ、立派に育てられました。

 崇主教は、①学者でした。教会史、殊に英国教会史に詳しく、著書も多数あります。しかし、過去の歴史の資料の中に埋もれるのではなく、常に現在の新しい動きに関心があり、②それ故に良い教師であり、③派手ではないけれども立派な説教者でした。その説教は、大学の教授をしながらも神田基督教会の牧師を兼ねて、④生身の人間の生々しい現実に触れるという牧会経験から生まれてきたものでした。それらの功績に対して、母校のケニヨン大学とヴァージニア神学校から名誉神学博士の称号を贈られました。

 主教になられて3年目の1988年に、巡回中の榛名聖公会で、少し言語が明瞭でないということで、そこの病院でCT検査した結果、脳腫瘍が発見されました。直ちに聖ルカ病院で精密検査を受け、脳腫瘍の大手術を受けられました。脳の方は順調に回復されたのですが、直後に発見された肺がんの方が、その後、骨に転移し、数年の闘病の末、去る3月12日遂に、天父に召されました。65歳と8カ月、人間的にいえば、まだまだ働いていただきたかったという思いです。

その闘病生活の中で、二年前には英国ウィンザーの首座主教会議に出席され、韓国、シンガポールに出張され、昨年は車椅子で日本聖公会総会の議長を務め、逝去される当日まで教区主教として常置委員長に指示を与えられたと伺っています。

 世紀末の世界の大転換期に当たって、それに対応すべく世界の聖公会も日本聖公会も様々な問題に直面し、苦悩しています。女性司祭叙任、戦争責任告白、差別問題等はほんの一例です。首座主教として大変苦労されました。問題があることは教会が生きている証拠です。個人の生もそうですが、死んでしまえば何の問題も存在しません。それぞれの問題について主教達の意見が違います。聖職も信徒もそうです。そして意見が違うことは、教会が健全である証拠です。もし、あらゆる問題について主教達の意見が完全に一致するようだったら、その時こそ大問題です。全体主義、ファシズムの陰が忍び寄っています。

 多様性を神の賜物、贈り物として受け取りながら、しかし、その多様性の中でどのように一致を見出していくのでしょうか。安易な妥協でなく、意見の違う者を切り捨てないで、どのように共存できるのでしょうか。中道(ヴィア・メディア)は全ての道の中で最も困難な道です。予め答えが備えられている根本主義者は、自分たちと意見の合わない者を切り捨てます。聖書根本主義者、伝統根本主義者、イデオロギー根本主義者は、対話・交渉を拒否します。交渉の余地がないのです。聖公会の特徴は、対話・交渉する際限のない能力です。

 勿論八代主教は、自分の固い信仰に基づいて、それぞれの問題について一家言を持っておられました。しかし、謙遜な方でした。真理を自分だけが独占しているといった傲慢さは一かけらもありませんでした。自分の意見が絶対であるとして、他人に押し付けるようなことは決してありませんでした。聖公会の三代目の聖職として、英国教会史の専門家として、聖公会の「多様性の中の一致」ということが、殆ど体質とまでなっていました。日本聖公会が誤った道に踏み込むのを、首座主教として防がれたのでした。神は必要な時に必要な人を召し出し、お遣わしになったのです。
 立教新座キャンパス桜
人生とは何でしょうか。人の一生の意味は何でしょうか。八代主教より年上の私にとって、この問いは他人事ではありません。四十五億年の地球の歴史、三十六億年の生物の歴史の最後に、奇跡としか言い様のない生命の大樹の頂上に、人類は花咲きました。しかし、個人の生はいかにも短い。詩編九十編の詩人は詠っています。
 「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」

 地球の、そして宇宙の時間に比べれば、人間の一生は一瞬の稲妻の閃光のようなものです。その短い人生の意味は何でしょうか。一生の価値が地位、名誉、業績、ましてや財産であろう筈はありません。それらのものはやがて消え去ります。

 私たちの信仰によれば、人生の意味は、イエス・キリストによって示された天地万物の創造主・歴史の支配者である神が、ご自身の御心をこの世に実現するようにと、私たちを召し出し、その使命を果たすべく賜物を与えて下さったということです。従って、私たちが地上での生涯を終えた時、神が問われる質問はただ一つ。「私が与えた命を十全に生きたか」であります。私たち各自が答えなければなりません。
 
 そして、八代主教は、地上での使命を果たし終わり、天父から「忠実な僕だ。良くやった。主人と一緒に喜んでくれ。重荷を下ろし、永遠の休みに入れ」と宣言されていると信じます。八代主教が私たちの間に生きたことを感謝し、祝いましょう。神が私たちの間に八代主教をお遣わしになったことを感謝し、祝いましょう。八代主教が走るべき道を走り終え、桜の花散るこの復活節に天父のもとに凱旋したことを、ハレルヤと感謝し、祝いましょう。そしてご遺族の上に人間の思いを遥かに超える神の慰めが与えられるように祈りましょう。アーメン


写真:桜花咲く立教新座キャンパスの写真は生前、崇本人が撮影したもの
   このチャペルで、日本聖公会と北関東教区の合同葬儀が行われた。

主教会 志木聖母にて縮小




















写真:1996年2月末、崇の逝去1年前、志木聖母教会で拡大主教会(退職主教を含む)が開かれた。
前列腰掛けている左端が八代崇、その隣が説教者の飯田主教(九州教区)
2列目左から5人目が東京教区、竹田主教。その背後3列目に立っているのが植松誠総主事(現首座主教)合同葬儀で弔辞を述べられた。
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