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夫・崇の生涯寸描

宣教師ミス・リーに抱かれて
1.生い立ち

 生まれは1931年。父は後に神戸教区主教となり、やがて総裁主教として戦後の日本聖公会を背負って立った八代斌助。祖父は北海道でバチェラー師父によって聖職とされた欽之允。兄は神戸教区主教となった欽一という聖職一家。崇は運命に逆らうこともなく、父に愛され、望まれ、そして自分からも望んで聖職の道を歩んだ。

 小学校では剣道に励み、無遅刻無欠席、最優秀の成績で卒業した。太平洋戦争の最中、中学生となり、14歳のとき終戦となる。時代は軍国主義から民主主義へと急転換、そんな中で、1ヶ月後、母を病気で失う。大多数の日本人が苦しみや悲しみを耐え抜き、必死で働き、やがて国の復興へ立ち向かった時代だ。

写真: 宣教師ミス・リーに抱かれて

ケニヨン・カレッジ卒業
2.アメリカ留学時代

 1951年、進学問題で迷っていた彼は、父親の勧めでアメリカ聖公会系の名門、ケニオン・カレッジに入学。厳しい学業の後、史学科を卒業する。

 続いてヴァージニア神学校へ進む。1958年卒業と同時にヴァージニア教区主教から執事按手を受ける。

 彼は歴史、殊に英国宗教改革史の研究を続けたいという希望をもっていたので、聖職となっても学問を続けるつもりだった。父親もそれを望んでいたので、彼はその後、常に大学との関係を持ち続けることになった。

 ケニオン在学中1954年の3月に、同じオハイオ州にあるデニソン大学にグルー基金奨学生として留学していた洋子との出会いがあった。

 1957年6月、洋子の卒業と同時に二人はシカゴで結婚した。当時の日本にとってアメリカは遠い国であり、一度も帰国することなく、七年間滞在したことは、彼のその後の人生に多大な影響を与えた。

写真:ケニヨン・カレッジ卒業

カンタベリー大学での友人
3.帰国そして、英国カンタベリーへ

 1958年執事按手を受けると間もなく日本へ帰った。1959年7月神戸の聖ミカエル教会で八代斌助主教により司祭按手を受ける。

 1960年桃山学院大学専任講師となり1971年立教大学に移るまで在任した。

 この間、一年間はカンタベリーのオーガスティン・カレッジへ留学し、生涯の友となる多くの国の聖職者との知己を得た。

 帰途、1963年、カナダのモントリオールで開かれた世界教会協議会の第4回信仰・職制世界会議に日本聖公会代表として出席している。

写真:カンタベリーのセント・オーガスティン・カレッジ時代の友人

4.八木基督教会の管理司祭として

 八木基督教会 1jpg
1965年から1971年の3月まで、当時の京都教区の森主教から八代斌助主教への要請があり、奈良県橿原市にある八木基督教会に定住し、管理することになる。週日は大阪にある桃山学院大学へ車で通っていた。

 教会を司牧するとはどんなことか、教会で生まれ育った彼は父の姿を見て知っていたが、八木に来て初めてその喜びと苦労と楽しみを味わったと思う。
 (写真左:八木基督教会 外観  写真右下:礼拝堂)

 八木礼拝堂
 その頃、八木の教会には、後に聖職を志願し、やがて沖縄教区主教となった谷昌二さんを中心に多くの青年たちが集まって自由に活動していた。日曜日の午後には教会に残り、牧師館にもやってきて飲んだり食べたりして、語り合っていた。

 崇はそんな元気な若者たちを相手にするのが楽しかったようだ。若者の一人が(惜しくも早世した女性)自分史の中で「牧師らしからぬ人」と、茶目っ気たっぷりの彼の思い出を語っている。「わたしは音痴です」と言いながら、独特のかすれ声で好きな演歌をよく歌っていた。


 熱心な信徒の中には町の旧家の名士や、大学教授、身体は不自由だが気骨のあるマッサージ師、教会が生き甲斐のような万年青年、面倒見がよく、お料理が上手なおばさんたちがいて、古き良き時代の、地方の教会の典型ではないかと思った。
  八木正月 2
八木正月家族5人jpg

 八木に着任したとき、我が家には六歳を頭に三人の子供がいて、四人目がここで生まれたのだが、若者たちは代わる代わる牧師館にやってきて子守をしてくれたり、遊びに連れて行ってくれたものだ。 壮年会は崇の洗礼名をとって「ヤコブ会」を結成した。当時の方々の大方は天国へ行かれたと思うが、「ヤコブ会」は今でも続いているそうだ。

研究室にて
5.東京へ出る
 1970年、父の斌助主教が召天した。

翌年4月、崇は立教大学に助教授として招かれる。東京へ出て教職に専念することになったが、日曜日には近くの教会に出たり、聖餐式を頼まれてあちこちの教会へ行ったりしていた。

そのうちに神田基督教会の信徒の訪問があり、是非 来て欲しいとの依頼があった。無牧になっていたので、次の牧師が決まるまで日曜日だけ手伝うということだったが、やがて深く関わりをもつようになる。

彼の性分として、頼まれたら「ノー」とは言えない。多くの信徒に慕われるようになった。彼は教会が大好き、そして常に人を思いやらずにはいられなかった。

 教師として大学にも深く関わり、学生部長や体育会長をつとめた。ヘビースモーカーであり、仲間との飲む機会も増していった。

 時間は万人に等しく、一日24時間与えられている。彼は同じ時間を用い、人の倍、仕事をした。司祭を務めながら、学術書を上梓した。神がその力を与えて下さった。彼自身が選んだ道であったかもしれないが、神が備えられた道でもあった。

写真:研究室にて

6.北関東教区主教に就任

首座主教として
 1985年1月15日、彼は北関東教区主教に按手される。断ることもできたが、彼らしく迷わず引き受けた。「神を信頼していれば道は開ける」が、彼の信条だった。ある先輩主教は、崇主教が座っているだけで、安心して主教会に出席できたと、崇の死後、述懐された。

旅と写真撮影が趣味だった彼は喜喜として地方の教会を訪ね、信徒たちに慕われ、写真を撮りまくり、配った。集合写真も進んで撮って「プロ以上の腕前」と自慢していた。

1987年の日本聖公会組織成立百周年記念にはカンタベリー大主教ランシー師を迎えるなど、数々の行事をこなした。最後の3年間は首座主教として癌と闘いながら、忠実に務めた。死の数時間前まで電話に応じ、最後まで笑顔を絶やさなかった。

写真:首座主教として

1997年3月12日帰天。

八木基督教会創立百周年記念に寄せて

八木基督教会創立百周年記念に寄せて
                        八代洋子

 八代崇が赴任した事情
親子5人 縮小

八代崇は1959年7月、神戸の聖ミカエル大聖堂で八代斌助主教より司祭按手を受け、神戸教区に所属すると同時に、1960年から桃山学院大学に教員として勤めていました。
当時京都教区の主教であった森譲師父から、八代斌助主教に崇を、大学の教職はそのままにして、八木キリスト教会の管理牧師として定住してほしいとの要請がありました。
1965年4月、夫婦と5歳の長男、3歳の長女、6ヶ月の次男の一家5人は奈良県橿原市にある八木基督教会の牧師館に移住いたしました。




未熟な牧師を信徒の方々が支えてくださる

裏庭の牧師館から見た八木基督教会
34才になっていた主人は司牧者としては八木基督教会が始めての教会でした。
私は東京育ちで、高卒後すぐに米国の大学へ留学し、卒業後すぐに結婚し、一年後主人の神学校卒業を待って帰国しました。東京在住の両親が日本基督教団の信徒で、私は幼児洗礼を受けていましたが、日本の聖公会という名の、しかも地方の教会とはどんなものか、全く知りませんでした。

子供三人に手がかかる上に、次女が八木で三年目に生まれて子供が四人になり、牧師の妻として教会のお手伝いは何もできず、もっぱら子育てに専念していました。八木基督教会には、名家、旧家の二代目、三代目の熱心な信徒の家族が多く、未熟な牧師夫婦をしっかりと支えて下さいました。
(写真:裏庭にある牧師館から見る教会。右端にヴェストリーへの入り口がある。

信徒たちの教会での活動と交わり
毎日曜日の礼拝出席者は平均20から30名くらいだったでしょうか。それでもクリスマスや、イースター、伝道集会などには礼拝堂がいっぱいになりました。特別な聖日には、礼拝が終わると2階の畳の広間に席を移して祝会が開かれました。

ちょうどその頃ご婦人たちが相談して、塗りのお重のお弁当箱が個々に揃えられました。お料理の上手なご婦人が多くいらして、お得意の料理を持ち寄ったり教会の台所で作ったりして、きれいにお重に詰められました。料亭のお弁当顔負けの出来栄えでした。
委員会や婦人会にはヴェストリー〈教会付属室〉が使われ、週日や夜にも開かれて、いろいろ熱心なご相談があったようです。私は委員会にでませんでしたが、そのご相談の結果のひとつが納骨堂でした。
納骨堂と誠 縮小3 
ある時、牧師館の陽の当たる縁側からよく見える、広々とした庭の片隅に納骨堂が、見る見る出来上がったのには驚きました。子供たちは忍者ごっこと称して、その入り口の二,三段の階段を飛び降りたり、飛び上がったりして喜び、主人はそれをビデオに撮って逆回しをして後ろ向きに飛び上がっている忍者のように見せ、面白がっていました。太陽が燦燦と降り注ぐ納骨堂の明るいイメージが印象に残っています。(写真:赤い車を前に、階段に腰掛ける次男)

青年会の活動 
土曜日になると青年達が集まってきました。多いときは30人もいたでしょうか。その半数近くは未信徒で、掃除が済むと、皆でおうどんか何か作って、食べたり、議論したり、楽しそうに過ごしていました。当時は谷昌二さん(現在沖縄教区主教)が中心になって皆をまとめていました。気の合う仲間を求めて、青年たちは自然に集まるものだと思いました。個性的で、魅力的な若者がそろっていました。信徒のほうがおとなしくて、未信徒が威張っていたり、実に面白い青年グループでした。日曜日も午後になるとどこからともなく、同じメンバーが再び現れ、にぎやかなことでした。

八木基督教会野球優勝旗を渡す 縮小
その中には神を求めて来る者もいて、やがて導かれて信仰に入る者もでます。夏には海で3泊4日のキャンプをしたり、秋には山にハイキングに行ったりしていました。主人もよく子供を連れて、参加していました。

青年や若手の壮年たちが伝道区の野球の試合に出て優勝したこともあります。主人が優勝旗を若手の壮年、入井さんに手渡している写真が残っています。入井さんは主人よりも若いのに主人より少し先に惜しくも召されましたが、教会が大好きな、万年青年でした。もう一人、主人の召される2年前に、若くして召された女性が寺見さん、当時は高校の英語教師の傍ら、オルガニストとして奉仕され、我が家の子供たちの相手もよくしてくれました。青年会の中心的なメンバーの一人でした。

近隣の教会との交流 
八木基督教会会衆縮小
近隣にあった桜井聖パウロ教会、田原本聖救主教会の2教会も管理することになっていましたので、日曜日の晩に桜井と田原本に交互に聖餐式に行っていました。桜井には付属幼稚園もありましたが、こちらの園長はH司祭がなさっていました。主人は子供たちを車に乗せて連れて行き、よく夕食をご馳走になりました。主人と子供たちにとって楽しいひとときだったようです。
高田基督教会には、やはり桃山学院大学の教職にあった小谷司祭がおられて、よく交流がありました。主人の洗礼名をとったヤコブ会という壮年の会が結成されたときにも、これら3教会の壮年の方々が加わり、意気盛んだったことを覚えています。(前から2列目:右から2人目入井さん、4人目津留司祭、前列左端谷主教の父上、3人目谷現沖縄教区主教、5人目谷主教の母上、右端の幼児次男の誠、(多分、父の崇が撮影している)

伝道師として都留孝夫さん、山口わかこさん赴任
津留執事、司祭になる
主人が平日は大学に通っていましたので、それを補う意味もあったと思います。沖縄教区出身の都留孝夫執事、次に山口わかこ伝道師が近所に部屋を借りて住み、主人を助けてくれました。

都留執事が司祭に按手されたときには、八木の信徒を代表して何人かの方が連れ立って、神戸の聖ミカエル大聖堂での式に参列されました。まだ占領下にあった沖縄を、当時のことですから船で、八木の青年、壮年たちが訪問し、沖縄教区の青年や愛楽園の信徒たちと交流したこともありました。
(写真:前列右端:八代崇司祭、中央:津留新司祭、八木の信徒に囲まれて)


天の会衆 
八木基督教会で、主人をしっかり支えて下さった若い入井さん、寺見さんが主人より先に天国へ旅立たれ、当時主人より年上だった多くの方々も大半は天国におられます。親しかった兄弟姉妹たちが待っていて下さると思えば、天国への旅路も楽しみです。



八木基督教会会衆3 縮小 
私たちが八木を離れて上京した一年後に召された中村実さんという方がいらっしゃいました。少し足がご不自由でマッサージ師をしておられたと思います。よく牧師館にこられて主人の身体をマッサージして下さいました。力が強くて痛すぎることもあったらしいのですが・・・ 
主日礼拝を欠かすことはなく、大斎中の早朝聖餐に出席される数少ない信徒のひとりでした。 礼拝後はよく主人のところへきて、説教についてコメントされていました。「『・・・と思います』、では駄目です。『そうである』と言い切って下さい」と、中村さんにとっては、主人の説教が生ぬるいようでした。中村さんの葬送式の説教で、主人は「中村さんは幼子のごとく神さまを信じきった人でした。まっすぐ天国へ迎えられたことを確信します」と述べています。(前列左から3人目 八代崇司祭 左端 マッサージ師の中村さん)


教会にはさまざまな人生を歩んでこられた方がいて、よく身の上話を聞かせてくださいます。私が聞き役になる場合もあり、教えられることが沢山ありました。私は苦難の道を歩んでこられた皆様のお話を聞かせていただけることが牧師夫人として一番の貴重な経験だったと思います。この世の戦いを終えて、天国に憩う方々の平安を祈るばかりです。

八木基督教会60周年


















1970年は八木基督教会の創立六十周年記念の年でした。北海道教区主教になられたばかりの渡辺政直師父を説教者として招き、盛大な記念礼拝が行われました。その前後のことでしたが、10月10日、崇の父の八代斌助主教が天に召されました。主人は父のお通夜には出ずに、当然のことですが、八木での記念大礼拝に留まりました。
(前列左から3人目:森京都教区主教、4人目:渡辺北海道教区主教であり、首座主教、前列右から4人目:八代崇司祭)
結び 
翌年1971年の3月、主人が立教大学へ赴任するため、私たちは八木を離れました。東京では立教大学教授となり、後に神田基督教会の管理牧師も同時に勤めました。1985年1月に北関東教区主教に按手され、1997年3月に65歳の生涯を終えました。
主人が生きていたらもっと多くの方々のことや、重要な事柄を具体的に記すことが出来たと思うと残念です。私が思い出すままに35年前の記憶をたどりながら書かせていただきました。偏った記録が多々あると思います。お許しください。

八木時代 4人の子供 縮小
大和三山に囲まれた、美しく穏やかな自然と日本の歴史の香りに包まれた良き地に、六年に及ぶ年月を過ごすことができたことは本当に幸いでした。子供たちにとっても大切な幼少年期を温かな信徒の方々に囲まれて、祈りの中に恵まれた日々を過ごすことができ、人生の滋味豊かな基礎が養われたと思います。

神さまに感謝しております。

 八木基督教会百周年記念誌に寄稿したもの  
  2010年11月3日 記念式が行われ出席しました。 

八代先生の思い出

八代先生の思い出  八木基督教会信徒  豊田洋一

 早いもので八代先生が召されて二カ月が過ぎようとしています。思い出を何かと言われて先ず浮かんでくるのは、あのやさしい柔和な笑顔と歯切れのよい低音の語り口です。
 
 八木での司牧中、怒りの顔を見たことがありません。先生の数少ない牧会の最初の地、八木へ来られたのは、当時後任の牧師がなく困っていることを聞かされた先代の斌助主教が、「私の息子に一人おるから」と当時桃山学院大学で教鞭を取っておられた崇先生を遣わして下さったのが昭和40年でした。

 当時八木は前任者の頃から青年会が徐々に増え活発になってきた中で僕もその一人でその後六年弱の八代時代に青春を教会で過ごした訳ですが、正直言って当時は八代先生の偉大さは深く理解できず、ただ非常やさしく抱擁力のある方で、居心地がよく、気がつくと足が教会へ向かっていました。皆も同じ思いか、若者がどんどん増えて多い時には100人を越える青年会になっていました。しかし、後年になってこれが時代の流れのみでなく、八代先生の影の力が非常に大きかったのが判ってきました。

 土曜日の午後になると自然と教会へ集まって来た者が議論や活動、娯楽に興じ大部分がそのまま教会で夜明かしをして日曜日の礼拝中は二階で夢の中、礼拝が終わる頃に起き出してくる始末。当時の教会の中心だった長老から当然文句も出ます。先生はその間に立って風当たりをうまく流し、青年会には思う存分活動出来る場や資金を引き出して下さったこと

八木基督教会野球チーム縮小 また、夏のキャンプで女子が参加するのに時代や土地柄、抵抗が多かったところ、親を訪ねて説得して下さったこと。日曜学校の子供達を集めるのに自家用車で自分の子供も乗せて信者さんの家を回られたこと。またキャンプ中はスタンツでの女装や腹に絵具で大きな目鼻を書いての腹芸で皆を楽しませて下さったこと等。
非常に強力なバックアップをしながらそれを感じさせない配慮や暖かさ、また相談を持ちかけると「うんうん、それで」と、聞き上手で話し易く「それでどうしたいの?」と自然にカウンセリングされてしまっていたこと等、思い出は尽きません。

 最後にお会いした今年の二月、先生の第一声は「こんなになっちゃったよ」と骨ばかりになった手を挙げて、まるで第三者のごとく自分を見つめ、それでいて悲しみを感じさせまいとして下さる配慮に昔の先生の姿を重ねていました。今も低く少ししゃがれて、歯切れのよい先生の声が聞こえてきます。
 「じゃ、またな。」

 (八代主教〈当時は司祭〉は、八木基督教会の牧師として1965~71年までお働きになれました。魂の平安を祈ります)京都教区便り「つのぶえ」1997.6.20

写真 八木基督教会野球チーム: 前列 左端 八代崇  前列 右から二人目 筆者の豊田洋一さん
プロフィール

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Author:eyyash
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