弔辞
植松誠主教 日本聖公会北海道教区主教
日本聖公会管区及び北関東合同葬儀(1997年4月5日)に於ける弔辞

敬愛するヤコブ八代崇主教様の葬送式に際して私が弔辞を述べさせていただくことになろうとは、三年前には想像だにしなかったことであり、今、私は不思議な神様のお導きとお恵みに大変厳粛な思いにさせられております。
振り返りますと八代主教様と私は三年程前までは、全くと申し上げていいほど面識はございませんでした。私が大阪教区の女性聖職問題に関する委員会の委員長として、主教様に大阪でのご講演をお願いいたしましたのが、私が主教様と直接言葉を交わした最初ではなかったかと思います。
一時間半ほどの講演では、主教様が準備してこられた内容のほんの一部しかお聞きすることができませんでしたが、終了後、主教様は私に用意していらっしゃったレジュメをくださり、短い時間ではありましたが、その内容について意見を交換したことを覚えております。難しい歴史や神学に関してではありましたが、今印象に残っておりますのは、主教様の私へのお気遣いとやさしい微笑みだけなのです。
1994年の日本聖公会総会におきまして、私は管区事務所の総主事に選任されました。何も事前には知らされずに、総会で八代主教様が首座主教に選出された日の夜遅く、ある主教さんから、「八代首座主教はあなたを総主事に選んで、明日指名する」と聞かされました。なぜ八代首座主教が私を総主事に選ばれるのか全く理解できませんでしたが、翌朝、主教様は私を別室にお呼びになり、総主事として、首座主教と一緒に働いてほしいとおっしゃいました。前の晩から用意してあった辞退の理由をいくつも申し上げましたが、結局八代主教様の温厚な笑顔と、「僕と一緒に管区のために」と言うお言葉に私は「この方がそうおっしゃるなら、もう断れない」と覚悟を決めました。
それ以来、私は八代主教様のお側で、主教様の最後の三年間をご一緒に過ごすことになりました。主教様が首座主教を務められたこの三年間は日本聖公会にとりましては、いくつもの大きな問題に取り組む重要な時期でした。戦後五十年を迎え、日本聖公会の戦争責任の問題、また女性司祭をめぐる賛成・反対の動き、オウム真理教事件や宗教法人法改正の動きの中で、日本国内のみならず、世界の教会からも日本聖公会首座主教として主教様がどのようなリーダーシップをお取りになるか注目されました。

健康を害されながらも主教様は1994年秋に京都で開催された東アジア聖公会主教会に集まったアジアの主教たちの前で、また1995年10月、シンガポールでのランベス会議準備のためのアジア主教会議でその議長を務めながら、過去における日本のアジア侵略に対して、衷心よりの謝罪の意を表されました。それはそこに居合わせた主教たちだけではなく、全聖公会中央協議会の総主事ジョン・ピーターソン司祭にも深い感銘を与え、それ以来、ピーターソン総主事は世界の各地の教会を訪問する度に、八代主教様の謝罪表明を人々に伝え、またそれ以後、私や管区渉外主事であった輿石勇司祭宛ての手紙には、毎回、主教様への尊敬の念を記していました。(写真上は弔辞を述べる植松誠主教)
1995年11月、韓国のソウル教区の主教按手式があり、主教様は腰から下の痛みを訴えながらも、首座主教としてそれに参列されました。ご多忙のこともあり、たった一泊でとんぼ返りするという強行軍でした。日本聖公会からは他にも主教たちが何人か参列するので、ご無理をなさらないようにお勧めしましたが、どうしても行くということで、私も主教様の鞄持ちで同伴させていただきました。この時も、主教様は祝賀会の席上、首座主教として韓国の教会また人々に日本聖公会の謝罪をお伝えになりました。まさにこのことのために韓国に来たという気迫がみなぎっておりました。
昨年五月に開催されました日本聖公会第49定期総会で、八代主教様は車椅子で議長を務められました。誰の目にも主教様が首座主教をもう一期されるのはご無理だということは明らかでした。主教様ご自身もそのようにお考えであったと思います。ところが、首座主教選挙では何回かの投票の後、主教様は首座主教に再選されました。議場では驚きの声も聞こえましたが、それ以上に安堵のような思いが支配的であったように思います。
「今の日本聖公会では首座主教は八代主教が最適である。ご病気で、お気の毒だが、それでもあえて八代主教に首座主教の任をお果たし願いたい」という思いがこのような結果に結びついたことは明らかでした。
八代主教様が学者であるということは、私も存じ上げてはおりましたが、私自身、主教様との関係の中で主教様をアカデミックな学者であると思ったことは一度もありませんでした。私の存じ上げる主教様は常に牧会者であり、どのように喜ぶ人と共に喜び、苦しむ人と共に苦しむかをよくわきまえ、それを自然に行う方でした。
歩行が困難になられて杖をつくようになられましたが、主教様は「杖をつく人々がいかに多くいるか、そして杖をつかない人がいかに杖をつく人に対して鈍感か初めて気がついた」と書いておられます。しかし、また、「イエス様は、杖をつく人間の弱さや痛みを本当に自分の痛みや弱さにして共に苦しんでくださるお方だ」ともおっしゃっておられました。
ご自分の病状が進む中で、最後には十字架に架けられるまで共に苦しんで下さるイエス様のお姿を見つめながら、主教様は誰にたいしてもやさしい慈父のような微笑みと祈りで心を合わせてくださいました。
今、八代主教様を神様の御許にお送りし、また主教様を偲ぶこの時、私たちは栄光を主教様に帰するのではなく、主教様を通して私たちに溢れるばかりのお恵みとお導きを与えて下さった神様に帰さなくてはなりません。それこそが、主教様が私たちに教えて下さった最も大事なことだと私は信じます。
栄光が父と子と聖霊にありますように。


1997/4/5 聖公会管区と北関東教区合同葬儀が、桜の花咲く立教新座キャンパスの聖パウロ礼拝堂で行われた
植松誠主教は崇主教の召天後10日目に北海道教区主教となり、現在は日本聖公会首座主教
植松誠主教 日本聖公会北海道教区主教
日本聖公会管区及び北関東合同葬儀(1997年4月5日)に於ける弔辞

敬愛するヤコブ八代崇主教様の葬送式に際して私が弔辞を述べさせていただくことになろうとは、三年前には想像だにしなかったことであり、今、私は不思議な神様のお導きとお恵みに大変厳粛な思いにさせられております。
振り返りますと八代主教様と私は三年程前までは、全くと申し上げていいほど面識はございませんでした。私が大阪教区の女性聖職問題に関する委員会の委員長として、主教様に大阪でのご講演をお願いいたしましたのが、私が主教様と直接言葉を交わした最初ではなかったかと思います。
一時間半ほどの講演では、主教様が準備してこられた内容のほんの一部しかお聞きすることができませんでしたが、終了後、主教様は私に用意していらっしゃったレジュメをくださり、短い時間ではありましたが、その内容について意見を交換したことを覚えております。難しい歴史や神学に関してではありましたが、今印象に残っておりますのは、主教様の私へのお気遣いとやさしい微笑みだけなのです。
1994年の日本聖公会総会におきまして、私は管区事務所の総主事に選任されました。何も事前には知らされずに、総会で八代主教様が首座主教に選出された日の夜遅く、ある主教さんから、「八代首座主教はあなたを総主事に選んで、明日指名する」と聞かされました。なぜ八代首座主教が私を総主事に選ばれるのか全く理解できませんでしたが、翌朝、主教様は私を別室にお呼びになり、総主事として、首座主教と一緒に働いてほしいとおっしゃいました。前の晩から用意してあった辞退の理由をいくつも申し上げましたが、結局八代主教様の温厚な笑顔と、「僕と一緒に管区のために」と言うお言葉に私は「この方がそうおっしゃるなら、もう断れない」と覚悟を決めました。
それ以来、私は八代主教様のお側で、主教様の最後の三年間をご一緒に過ごすことになりました。主教様が首座主教を務められたこの三年間は日本聖公会にとりましては、いくつもの大きな問題に取り組む重要な時期でした。戦後五十年を迎え、日本聖公会の戦争責任の問題、また女性司祭をめぐる賛成・反対の動き、オウム真理教事件や宗教法人法改正の動きの中で、日本国内のみならず、世界の教会からも日本聖公会首座主教として主教様がどのようなリーダーシップをお取りになるか注目されました。

健康を害されながらも主教様は1994年秋に京都で開催された東アジア聖公会主教会に集まったアジアの主教たちの前で、また1995年10月、シンガポールでのランベス会議準備のためのアジア主教会議でその議長を務めながら、過去における日本のアジア侵略に対して、衷心よりの謝罪の意を表されました。それはそこに居合わせた主教たちだけではなく、全聖公会中央協議会の総主事ジョン・ピーターソン司祭にも深い感銘を与え、それ以来、ピーターソン総主事は世界の各地の教会を訪問する度に、八代主教様の謝罪表明を人々に伝え、またそれ以後、私や管区渉外主事であった輿石勇司祭宛ての手紙には、毎回、主教様への尊敬の念を記していました。(写真上は弔辞を述べる植松誠主教)
1995年11月、韓国のソウル教区の主教按手式があり、主教様は腰から下の痛みを訴えながらも、首座主教としてそれに参列されました。ご多忙のこともあり、たった一泊でとんぼ返りするという強行軍でした。日本聖公会からは他にも主教たちが何人か参列するので、ご無理をなさらないようにお勧めしましたが、どうしても行くということで、私も主教様の鞄持ちで同伴させていただきました。この時も、主教様は祝賀会の席上、首座主教として韓国の教会また人々に日本聖公会の謝罪をお伝えになりました。まさにこのことのために韓国に来たという気迫がみなぎっておりました。
昨年五月に開催されました日本聖公会第49定期総会で、八代主教様は車椅子で議長を務められました。誰の目にも主教様が首座主教をもう一期されるのはご無理だということは明らかでした。主教様ご自身もそのようにお考えであったと思います。ところが、首座主教選挙では何回かの投票の後、主教様は首座主教に再選されました。議場では驚きの声も聞こえましたが、それ以上に安堵のような思いが支配的であったように思います。
「今の日本聖公会では首座主教は八代主教が最適である。ご病気で、お気の毒だが、それでもあえて八代主教に首座主教の任をお果たし願いたい」という思いがこのような結果に結びついたことは明らかでした。
八代主教様が学者であるということは、私も存じ上げてはおりましたが、私自身、主教様との関係の中で主教様をアカデミックな学者であると思ったことは一度もありませんでした。私の存じ上げる主教様は常に牧会者であり、どのように喜ぶ人と共に喜び、苦しむ人と共に苦しむかをよくわきまえ、それを自然に行う方でした。
歩行が困難になられて杖をつくようになられましたが、主教様は「杖をつく人々がいかに多くいるか、そして杖をつかない人がいかに杖をつく人に対して鈍感か初めて気がついた」と書いておられます。しかし、また、「イエス様は、杖をつく人間の弱さや痛みを本当に自分の痛みや弱さにして共に苦しんでくださるお方だ」ともおっしゃっておられました。
ご自分の病状が進む中で、最後には十字架に架けられるまで共に苦しんで下さるイエス様のお姿を見つめながら、主教様は誰にたいしてもやさしい慈父のような微笑みと祈りで心を合わせてくださいました。
今、八代主教様を神様の御許にお送りし、また主教様を偲ぶこの時、私たちは栄光を主教様に帰するのではなく、主教様を通して私たちに溢れるばかりのお恵みとお導きを与えて下さった神様に帰さなくてはなりません。それこそが、主教様が私たちに教えて下さった最も大事なことだと私は信じます。
栄光が父と子と聖霊にありますように。


1997/4/5 聖公会管区と北関東教区合同葬儀が、桜の花咲く立教新座キャンパスの聖パウロ礼拝堂で行われた
植松誠主教は崇主教の召天後10日目に北海道教区主教となり、現在は日本聖公会首座主教