―日本聖公会組織成立百周年記念によせて―
三十八年前のことになる。立教を受験するために、旧制中学の担任のところに内申書を依頼に行った。
「リッキョウ?どこにあるの?その学校?」
「セイコウカイの学校で、東京にあります」
「セイコウカイ?何それ?」
昨日のことのように思いだす会話である。
現在では、立教の名を知らない高校教師はいないであろう。もっとも、今でもワープロにリッキョウと入力して、漢字変換キーを叩くと「陸橋」が出てくる。陸橋ではなく立教となったのは、昭和三十年代に学部を増設し、秀れた教員を迎え、教育内容を飛躍的によくしたため、入試が難しくなったからであろう。しかし、同時に、長嶋、杉浦、本屋敷たちが立教の名を高めるために大活躍してくれたことも忘れてはなるまい。
昔でも、立教を東京六大学の一つとして知っていた人も多かったであろうが、関西では知らない人も大勢いたのである。
セイコウカイの方は、いまだに知る人は少ない。ワープロで打ち込むと、とんでもない漢字が出てくるおそれがある。セイコウカイが教会であることを知っている人は、よほど日本のキリスト教界の事情に明るい人だろう。立教の教会ですよ、と言えばやっと分かってもらえるといった具合だ。明治七年に、アメリカから来た宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが始めた英学塾が、現在の立教大学の前身である。
立教だけではない。聖ルカ国際病院、立教女学院、香蘭女学校などがセイコウカイに関係のあることを知っている人も極めて少ない。
そこで一つの計画がもち上がった。今年五月、英国国教会のカンタベリー大主教ロバ-ト・ランシー師が立教を訪問されるので、東武百貨店で「英国カンタベリー展」を開催し、一般の人々にせいぜいセイコウカイ、およびそれと関係のある立教、立教女学院、香蘭女学校、聖ルカ国際病院をPRしようという計画である。
ランシ―大主教は、日本におけるセイコウカイの組織成立百周年を記念して来日される。セイコウカイというのはもちろん日本だけの呼称で、全世界に広まった英国国教会から派生した教会は二十七、信徒数六千五百万。英国以外では、「国法によって制定された」教会ではないので、国教会とは呼ばれない。この世界的規模の教会は「アングリカン・コミュニオン」と呼ばれている。二十七の教会の一つ、南アフリカ共和国にあるセイコウカイの最高責任者は、アパルトヘイトに抵抗して闘っている黒人指導者デズモンド・ツツ大主教で、本年八月立教のチャペルで説教をされた。集まった報道関係者たちは、セイコウカイを知らなかった。信徒三万五千人では知らないといっても怒るわけにはいかない。
立教を創設したウィリアムズは、まだキリシタン禁制時代の日本に、アメリカセイコウカイが送り込んだ宣教師である。アメリカ・セイコウカイ自体は、英国から派遣された宣教師によって種をまかれ、アメリカ独立後、1783年、英国国教会から独立した。アングリカン・コミュニオンに属するその他の教会も、アメリカ・セイコウカイ同様、それぞれ英国国教会から独立して、今日に至っている。
そういったわけで、英国セイコウカイの最高責任者であるカンタベリー大主教は、たんに英国の教会だけでなく、全世界のセイコウカイの「道義的」かしらである。日本聖公会組織成立百年記念のため来日され、立教を訪問されるのも、そのような地位にある者としてである。
現在のカンタベリー大主教の来校は、今回で三度目である。最初は、1959年、ウィリアムズ主教来日百年を記念して行われた大礼拝に参加するために来られた第九九代カンタベリー大主教フィッシャー博士。
二回目は1973年に、当時の佃総長から名誉人文学博士号を受領された第百代のマイケル・ラムゼイ大主教。ラムゼイ大主教は、のちにウィリアムズ主教記念基金講座の第一回の講師として、立教及び関係諸学校のために奉仕された。しかし、なぜ、カンタベリー大主教だからといって騒がなければならないのだろうか。

写真左: 説教中の フィッシャー大主教
写真右: ラムゼイ大主教の説教を通訳する八代崇
イングランドにおける教会は長い歴史をもってはいるが、ローマ・カトリック教会や東方教会のように、世界的規模の教会になったのは近世に入ってからである。カンタベリー大主教が重要視されるようになったのは、イギリスという国家が近世以降果たしてきた役割の大きさによる。議会制民主主義、産業革命、英米法、英文学、などが近代世界に及ぼした影響を考えるとき、大英帝国の教会の最高責任者には、他の地域や国の教会の指導者たちには与えられないような栄誉が与えられるようになった。
国王の戴冠式、王族の結婚、洗礼、葬儀などを執り行うカンタベリー大主教は、現在でも宮廷で国王に次ぐ地位を占めるし、海外訪問には、外務省の出先機関が面倒をみるし、受け入れ側も国の公賓扱いで迎える。
セイコウカイという教会は、国籍、人種、その他の差異に関係なく、このカンタベリー大主教との交わりのうちにある世界の諸教会を指す。明治二十年、ウィリアムズ主教が英国人主教ピカステス師と共に、大阪川口キリスト教会に招集した第一回総会で、この世界的教会の日本における肢を「聖公会」と称することが決まった。この言葉は、洗礼時の信仰告白である「使徒信経」の中で教会を言い表す言葉とされている。セイコウカイは、キリストの弟子(使徒)たちによって建てられた教会につながる二千年の歴史をもつ教会であることをウィリアムズ主教は言いたかったのである。
カンタベリー大主教の来校を機に、もう一度リッキョウとセイコウカイの関係を考えてみたい。
(1987年2月 雑誌「立教」より)
三十八年前のことになる。立教を受験するために、旧制中学の担任のところに内申書を依頼に行った。
「リッキョウ?どこにあるの?その学校?」
「セイコウカイの学校で、東京にあります」
「セイコウカイ?何それ?」
昨日のことのように思いだす会話である。
現在では、立教の名を知らない高校教師はいないであろう。もっとも、今でもワープロにリッキョウと入力して、漢字変換キーを叩くと「陸橋」が出てくる。陸橋ではなく立教となったのは、昭和三十年代に学部を増設し、秀れた教員を迎え、教育内容を飛躍的によくしたため、入試が難しくなったからであろう。しかし、同時に、長嶋、杉浦、本屋敷たちが立教の名を高めるために大活躍してくれたことも忘れてはなるまい。
昔でも、立教を東京六大学の一つとして知っていた人も多かったであろうが、関西では知らない人も大勢いたのである。
セイコウカイの方は、いまだに知る人は少ない。ワープロで打ち込むと、とんでもない漢字が出てくるおそれがある。セイコウカイが教会であることを知っている人は、よほど日本のキリスト教界の事情に明るい人だろう。立教の教会ですよ、と言えばやっと分かってもらえるといった具合だ。明治七年に、アメリカから来た宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが始めた英学塾が、現在の立教大学の前身である。
立教だけではない。聖ルカ国際病院、立教女学院、香蘭女学校などがセイコウカイに関係のあることを知っている人も極めて少ない。
そこで一つの計画がもち上がった。今年五月、英国国教会のカンタベリー大主教ロバ-ト・ランシー師が立教を訪問されるので、東武百貨店で「英国カンタベリー展」を開催し、一般の人々にせいぜいセイコウカイ、およびそれと関係のある立教、立教女学院、香蘭女学校、聖ルカ国際病院をPRしようという計画である。
ランシ―大主教は、日本におけるセイコウカイの組織成立百周年を記念して来日される。セイコウカイというのはもちろん日本だけの呼称で、全世界に広まった英国国教会から派生した教会は二十七、信徒数六千五百万。英国以外では、「国法によって制定された」教会ではないので、国教会とは呼ばれない。この世界的規模の教会は「アングリカン・コミュニオン」と呼ばれている。二十七の教会の一つ、南アフリカ共和国にあるセイコウカイの最高責任者は、アパルトヘイトに抵抗して闘っている黒人指導者デズモンド・ツツ大主教で、本年八月立教のチャペルで説教をされた。集まった報道関係者たちは、セイコウカイを知らなかった。信徒三万五千人では知らないといっても怒るわけにはいかない。
立教を創設したウィリアムズは、まだキリシタン禁制時代の日本に、アメリカセイコウカイが送り込んだ宣教師である。アメリカ・セイコウカイ自体は、英国から派遣された宣教師によって種をまかれ、アメリカ独立後、1783年、英国国教会から独立した。アングリカン・コミュニオンに属するその他の教会も、アメリカ・セイコウカイ同様、それぞれ英国国教会から独立して、今日に至っている。
そういったわけで、英国セイコウカイの最高責任者であるカンタベリー大主教は、たんに英国の教会だけでなく、全世界のセイコウカイの「道義的」かしらである。日本聖公会組織成立百年記念のため来日され、立教を訪問されるのも、そのような地位にある者としてである。
現在のカンタベリー大主教の来校は、今回で三度目である。最初は、1959年、ウィリアムズ主教来日百年を記念して行われた大礼拝に参加するために来られた第九九代カンタベリー大主教フィッシャー博士。
二回目は1973年に、当時の佃総長から名誉人文学博士号を受領された第百代のマイケル・ラムゼイ大主教。ラムゼイ大主教は、のちにウィリアムズ主教記念基金講座の第一回の講師として、立教及び関係諸学校のために奉仕された。しかし、なぜ、カンタベリー大主教だからといって騒がなければならないのだろうか。


写真左: 説教中の フィッシャー大主教
写真右: ラムゼイ大主教の説教を通訳する八代崇
イングランドにおける教会は長い歴史をもってはいるが、ローマ・カトリック教会や東方教会のように、世界的規模の教会になったのは近世に入ってからである。カンタベリー大主教が重要視されるようになったのは、イギリスという国家が近世以降果たしてきた役割の大きさによる。議会制民主主義、産業革命、英米法、英文学、などが近代世界に及ぼした影響を考えるとき、大英帝国の教会の最高責任者には、他の地域や国の教会の指導者たちには与えられないような栄誉が与えられるようになった。
国王の戴冠式、王族の結婚、洗礼、葬儀などを執り行うカンタベリー大主教は、現在でも宮廷で国王に次ぐ地位を占めるし、海外訪問には、外務省の出先機関が面倒をみるし、受け入れ側も国の公賓扱いで迎える。
セイコウカイという教会は、国籍、人種、その他の差異に関係なく、このカンタベリー大主教との交わりのうちにある世界の諸教会を指す。明治二十年、ウィリアムズ主教が英国人主教ピカステス師と共に、大阪川口キリスト教会に招集した第一回総会で、この世界的教会の日本における肢を「聖公会」と称することが決まった。この言葉は、洗礼時の信仰告白である「使徒信経」の中で教会を言い表す言葉とされている。セイコウカイは、キリストの弟子(使徒)たちによって建てられた教会につながる二千年の歴史をもつ教会であることをウィリアムズ主教は言いたかったのである。
カンタベリー大主教の来校を機に、もう一度リッキョウとセイコウカイの関係を考えてみたい。
(1987年2月 雑誌「立教」より)