1. ガンビアという田舎町
成田をジェット機で飛び立つと、いまなら太平洋をひと飛びにして、16時間ほどでシカゴに着く。飛行機を乗り継いでオハイオ州コロンバスまでが約2時間。昔はこの広大な大陸を人は何日もかかって幌馬車で旅したのだと思うと、科学技術の進歩に目をみはらされる。40年前に筆者が同じ旅を辿ったときも、船に二週間乗ってサンフランシスコに着き、汽車に三日ほど揺られてシカゴに来たことを思い出す。
コロンバスからバスに乗って道を東北にとり、一時間も行くとマウント・バーノンという町に到着する。あとは交通機関がないのでタクシーに乗り、東に五マイルも行けば、丘陵地帯の小さい村に至る。ガンビアという人口500人ほどの町というより村であり、ケニヨン・カレッジという大学のホームタウンである。

ケニヨンの創始者ファイランダー・チェイス(1775~1852)が大学を創設した1824年という時点では、オハイオは多分に西部の名残をとどめていた。東部13州がイギリスからの独立を宣言した1776年からすでに半世紀が経過していたが、アレゲニー山脈以西の無限とも思える広大な土地は、まだあまり開拓が進んでいなかった。1803年、第17番目の州として合衆国加入を許されたオハイオも、ニューヨークやニューイングランドの人々の目には、森と泉とインディアンの土地でしかなかったのである。
1817年の春、アメリカ聖公会というキリスト教会の宣教師としてオハイオに来たチェイスは、州内各地に点在していた植民者の家族を集めて礼拝をし、説教をして回った。その彼が痛感したことは、同労者の不足であった。東部の大学のほとんどが牧師養成機関として発足したのに倣って、チェイスも西部で働く牧師の養成機関をオハイオ州に造ろうと決意した。しかし当時のアメリカは後進国であり、アメリカ聖公会も冒険家チェイスの野心を満足させるほどの余分な金には恵まれていなかった。チェイスの目は、大西洋を越えてイギリスに注がれた。アメリカ聖公会が英国国教会を母教会としていたので、イギリスの教会人や貴族の援助を期待できると考えたからである。
1823年10月にアメリカを発ったチェイスは、八か月イギリスにとどまって、各地で精力的に募金活動を繰り広げた。教養のある礼儀正しい英国風の高位聖職者を見馴れていた貴族たちは、アメリカ西部から飛び出してきた、6フィート4インチ(190センチメートル)の身の丈の、がっしりした農夫風のチェイスに感銘したためか、次々に寄付を申し込んだ。チェイスが帰米するころまでには三万ポンドが寄せられたのである。
1824年、オハイオの自宅で30人の学生をもって始められたチェイスの学校は、州内各地にキャンパスにふさわしい土地を求めて、ほどなく現在のガンビアに移った。村の名前となったガンビアは英国の後援者ガンビア卿から、大学の名前ケニヨンは同じく後援者のケニヨン卿からとられた。
写真はケニヨン・カレッジのチャペル
(ガンビアとケニヨンについては、庄野潤三『ガンビア滞在記』中央公論社、昭和34年を参照)
成田をジェット機で飛び立つと、いまなら太平洋をひと飛びにして、16時間ほどでシカゴに着く。飛行機を乗り継いでオハイオ州コロンバスまでが約2時間。昔はこの広大な大陸を人は何日もかかって幌馬車で旅したのだと思うと、科学技術の進歩に目をみはらされる。40年前に筆者が同じ旅を辿ったときも、船に二週間乗ってサンフランシスコに着き、汽車に三日ほど揺られてシカゴに来たことを思い出す。
コロンバスからバスに乗って道を東北にとり、一時間も行くとマウント・バーノンという町に到着する。あとは交通機関がないのでタクシーに乗り、東に五マイルも行けば、丘陵地帯の小さい村に至る。ガンビアという人口500人ほどの町というより村であり、ケニヨン・カレッジという大学のホームタウンである。

ケニヨンの創始者ファイランダー・チェイス(1775~1852)が大学を創設した1824年という時点では、オハイオは多分に西部の名残をとどめていた。東部13州がイギリスからの独立を宣言した1776年からすでに半世紀が経過していたが、アレゲニー山脈以西の無限とも思える広大な土地は、まだあまり開拓が進んでいなかった。1803年、第17番目の州として合衆国加入を許されたオハイオも、ニューヨークやニューイングランドの人々の目には、森と泉とインディアンの土地でしかなかったのである。
1817年の春、アメリカ聖公会というキリスト教会の宣教師としてオハイオに来たチェイスは、州内各地に点在していた植民者の家族を集めて礼拝をし、説教をして回った。その彼が痛感したことは、同労者の不足であった。東部の大学のほとんどが牧師養成機関として発足したのに倣って、チェイスも西部で働く牧師の養成機関をオハイオ州に造ろうと決意した。しかし当時のアメリカは後進国であり、アメリカ聖公会も冒険家チェイスの野心を満足させるほどの余分な金には恵まれていなかった。チェイスの目は、大西洋を越えてイギリスに注がれた。アメリカ聖公会が英国国教会を母教会としていたので、イギリスの教会人や貴族の援助を期待できると考えたからである。
1823年10月にアメリカを発ったチェイスは、八か月イギリスにとどまって、各地で精力的に募金活動を繰り広げた。教養のある礼儀正しい英国風の高位聖職者を見馴れていた貴族たちは、アメリカ西部から飛び出してきた、6フィート4インチ(190センチメートル)の身の丈の、がっしりした農夫風のチェイスに感銘したためか、次々に寄付を申し込んだ。チェイスが帰米するころまでには三万ポンドが寄せられたのである。
1824年、オハイオの自宅で30人の学生をもって始められたチェイスの学校は、州内各地にキャンパスにふさわしい土地を求めて、ほどなく現在のガンビアに移った。村の名前となったガンビアは英国の後援者ガンビア卿から、大学の名前ケニヨンは同じく後援者のケニヨン卿からとられた。
写真はケニヨン・カレッジのチャペル
(ガンビアとケニヨンについては、庄野潤三『ガンビア滞在記』中央公論社、昭和34年を参照)