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年の瀬に思う

年の瀬に思う

 カンタベリー大聖堂 表紙IMG_0002
宗教法人法改正をめぐっての国会での激しいやりとりをみていて、改めて「宗教とは何か」ということを考えさせられています。

宗教には「聖なるもの」と「俗なるもの」、普遍主義的な価値と特殊主義的な価値があるということを教えてくれたのは、宗教史家エリアーデでした。

「啓蒙(けいもう)」という観点から人類の歩みを眺めれば、特定の時代、特定の民族や文化だけにしか通用しない「聖なるもの」や特殊主義的価値観は自然淘汰(とうた)されてきたし、これからも消滅していくと考えられがちです。
 
人類は、かつて宗教の名前で押し付けられ非合理的なものをめぐって争ってきたが、「自由」、「平等」「博愛」といった普遍的原理を見出すことによって、より良い社会をつくってきたというのが、多くの現代人の考えだと思われます。はたして、そうでしょうか。
 
自由、平等、博愛を旗印に革命を遂行し、人権思想を世界に広めたのがフランスですが、そのフランスが第二次世界大戦後も植民地の保持に固執し、現在では世界の世論に反してまでも核実験を強行するのはなぜでしょうか。
 
ブログ用ラムゼイ大主教の説教通訳 IMG_0017
自由とか平等とか博愛といっても、全人類が異論なく合意しえる普遍的価値ではないからではないでしょうか。自由と平等が原理的に矛盾しあうものであることは、否定できません。

 個人も民族も、特殊主義的な価値観や宗教に固執していては駄目だといわれても、宗教は本来特定の時代に特定の地域で出現した、特殊主義的性格を強くしています。
 
キリスト教はその最たるものでしょう。日本でも国民的祭日化したクリスマスは、二千年前に、ユダヤのベツレヘムで生まれたイエスの誕生日です。そのイエスの十字架上の死と復活によってしか人間は救われない、といった主張は「特殊性のつまずき」でしかありえないのです。
 
布教とは、他の人の特殊主義的価値観を捨てさせ、自分の特殊的価値観を受け入れさせることです。キリスト教も他の宗教も、そのような布教活動によって、世界的宗教となったのです。

 日本ではもちろんのこと、世界的にも近年キリスト教の停滞が指摘されています。この停滞が特殊主義的価値観の押し付けである「帝国主義的布教」への反省の結果であるとすれば、歴史の皮肉といわざるをえません。
(産経新聞・1995・12・22)

胡蝶蘭
写真左上:カンタベリー大聖堂 英国国教会の本山 撮影は崇による

写真右上:ラムゼイ大主教訪日の際、通訳を務めた崇 神戸聖ミカエル大聖堂にて

写真左:病気見舞いに送られた”胡蝶蘭” 崇撮影 写真の趣味は病床にあっても続いた。

サンタ・クロースさん

サンタ・クロースさん   八代崇

 シクラメンの花 1 縮小IMG-0084
先月、神戸教区のある教会で、幼稚園の父母会に話を頼まれたので、「人間というものは、天使であった幼児がだんだんと天使らしさを失っていくものである」という持論を述べました。話が終わったところで、いつごろから天使らしさがなくなるのか、という質問が出ました。多分サンタ・クロースさんが信じられなくなったころからでしょうと、答えました。
 
  わたしは十一人兄弟の四番めですが、兄や姉たちよりもすぐ下の弟たちとよく悪いことをしながら育ちました。小学校に入った頃でしょうか、クリスマスが近づいて、弟たちがサンタ・クロースさんはいつ来てくれるのかとか、今年は何をくれるのか、というのを聞いたわたしは一大発見をした大科学者のように、「アホ、サンタ・クロースなんておるかいな。あれ、おやっさんやで」と言いました。クリスマス・イブの夜、三人は寝たふりをして、今か今かとサンタ・クロースさんの到着を待ちました。ところが、なかなか来ません。とうとう弟たちは待ちくたびれて、寝てしまいました。わたしももうちょっとで眠りそうになったところで、来ました。サンタ・クロースさんが。ただし、おやっさんではなく、おっかさんでした。翌朝、弟たちは「やっぱりサンタ・クロース来たで」と嬉しそうに語ったのを思い出しています。
 
 家族旅行縮小、修正


   写真:戦時中の家族旅行。右に立っているのが長男欽一、
      その前に立っているのが崇、左となりが弟の浩(三男)、
      左端、母の横に立っているのが、弟の胖(四男)
      この後、終戦間際にもう一人女の子が生まれ
      兄弟姉妹は合わせて9人となる。

      戦後母親が亡くなり父の再婚により子供がさらに
      二人増え、十一人兄弟となった。幼少期に亡くなった
      二男を数に入れてると全員で12人となる。
      崇は戸籍上、三男であった。
 
   上の写真:クリスマスに贈られたシクラメンを崇が撮影したもの

サンタ・クロースは四世紀に小アジアのミラ(現在のトルコ領)の主教であった聖ニコラスがモデルであると言われています。詳しいことは分かりませんが、325年のニケヤ総会議にも出席したようです。はっきりしていることは、死後聖ニコラスに対する尊崇の念が強まり、十世紀に神聖ローマ皇帝オットー二世に嫁したビザンチンの王女によって聖ニコラスの遺骨の一部がドイツにもたらされ、聖ニコラスを記念する教会が二千以上も建立されたということです。その後、聖遺骨はドイツに侵入したイタリア軍によって持ち去られ、今度はイタリア各地で聖ニコラスを記念する教会が建てられたということです。
 
 それほどまでに、聖ニコラスが尊崇された理由は、幾つかの伝説によると思われます。その一つによれば、三人の娘を抱えて、嫁入り支度金に困っていたある夫婦のところにやって来た聖ニコラスが金貨の一杯入った袋を放りこんでいったということです(日本でも「娘三人持てば身代つぶす」ということわざがありましたね)。ほかにも、無実の罪で死刑を宣告され、牢獄に閉じ込められていた青年を奇跡的に助けられた、といった話もあります。いずれにしろ、人間が苦しむときに助けてくれる人の右代表が聖ニコラスと考えられるようになりました。
 
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先月、所用で札幌に行きました。北星学園という学校の近くに、聖公会の教会が新しくできて、名前は「聖ニコラス教会」にしたいということです。日本自体が経済大国となり、子供たちもサンタ・クロースさんにお願いしなくとも、願いごとが何でも叶うようになった現在、聖公会のなかに少なくとも一つ、天使らしさを失わない子供たちのために、サンタ・クロースの教会が出来ることは素晴らしいことだと思いました。(左の写真は函館の聖ニコラス教会)

(北関東教区時報171号  1991年12月)

羊どしに生まれて

羊どしに生まれて
還暦の誕生日(1931年7月16日生まれ)を迎えて   八代崇

 干支(えと)そのものは、中国から来たせいか、十二支には、日本古来の動物でないものがあります。龍(辰たつ)のような架空の動物はさておいて、虎や羊なども、日本ではなじみのない動物ではなかったでしょうか。
 
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羊というと、おとなしい、柔順な動物というイメージが浮かびます。そのせいか、「おれは羊どしなんだよ」と悪友に言ったら、「ああ、羊の皮をかぶった狼ね」という答えが返ってきました。
  
 英語で「ブラック・シープ」(黒い羊)という表現があります。たいていの羊は白くて、おとなしいが、中にはとんでもない、悪い羊がいます。それが「ブラック・シープ」だとすると、さしずめ、わたしは「ブラック・シープ」かも知れません。ともかく、天邪鬼(あまのじゃく)に出来ていて、みんながやっていることなら、やらないと我を張るようなところが、わたしにはあるようです。それをごまかすためか、「付和雷同はいけません」などと言って廻ります。

 神戸で生まれ育ったせいで、動物は動物園でしか見たことがない人間でしたから、初めてアメリカで見た羊の群れには圧倒されました。しかも、どの羊もわたしには同じに見えるのです。主イエスは九十九匹の羊のたとえの中で、失われた一匹の話をされましたが、わたしが羊飼いなら、羊が一匹いなくなっても、とうてい判らないだろうと思いました。
 
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しかも、よく見ると、羊というのは、汚くて、臆病そうなくせに、強情で、自分勝手に動き回っていて、そのくせ間抜けなようにも思われて、これでは「飼うものなき羊」とは、どうしようもない羊の群れを言っているのだなと感心したことを思い出しています。
 
 しかし主イエスはその羊についてやさしい言葉を多く残されました。良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われましたし、羊もまた、その良い羊飼いを知る、と語られました(ヨハネ10・14)。そういう羊は主イエスに聞き従うのです。主イエスがペテロに三度までも「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21・15~17)と言われたのは、こういった、永遠の命を与えられ、だれも主イエスの手から奪うことの出来ない羊のことでした。
 
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もっとも、みんながみんな、良い羊ではありませんでした。主イエスが羊について語られたのは、神殿奉献記念祭が行われた冬のある日、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられたときのことで、話された相手は主イエスがはたしてメシア(救い主)かどうか判らなかったユダヤ人たちでした。その彼らに主イエスは「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(ヨハネ10・26)と語られたのです。主イエスの羊でない羊、主イエスを信じない人々、それこそが「失われた羊」です。
 
 還暦祝い4 縮小

良い羊とは、羊のために命を捨てられた良い羊飼いを「知り」、「聞き従う」羊のことです。自分はそういう羊なのか、それとも40年前にアメリカ中西部の農場でみた薄汚い羊なのか、その問いを誕生日を迎えて、もう一度出発点に戻った機会に、自分自身に問いかけてみたいと思っています。

(教区時報169号  1991年8月)

1988年、1月に脳腫瘍、8月に肺がんの手術を受けた後、回復して元気になった崇を励まそうと、
池袋のメトロポリタン・ホテル・バンケットホールで還暦の祝賀会を催して下さった。

イースター・メッセージ

復活の信仰    ロシヤ正教会に学ぶ 
    
主教ヤコブ八代崇

 ここ二、三年の間に東欧、そしてソ連で生じた政治的出来事はわたしたちの予想し得なかったことだけに、幾度となくテレビで特別番組が組まれました。三月一五日の夜NHKが放映した「ロシアの心・祈りの鐘がよみがえる」もそういった番組の一つでした。

 テレビを見ていて深い感銘を受けたのは、1917年の革命以来75年間抑圧され続けてきたロシヤ正教会が、ふたたび民衆の間に、力強くその姿を現したことでした。

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 わたしが東京に出てきたのは昭和23年(1948年)で、ちょうど中国でも革命が成功した年でした。先生も学生も、まもなく全世界が社会主義になると興奮して叫んでいたのを思い出します。

 民衆を惑わすアヘンだと言われた宗教が、今や人間的制度や組織によって滅ぼされるものではないことをロシヤ正教会は示したのです。
 
 テレビで復活したロシヤ正教会の礼拝を見ていてふと思ったことは、日本だってロシヤ人や彼らの宗教とは無縁だったわけではないということでした。
(写真上:千代田区にあるニコライ堂・東京復活大聖堂)


 わたしが生まれ育った神戸という町が国際都市だったせいか、小学校のときにはクラスに中国、韓国、インド、その他の国の子どもたちがいました。その中に白系ロシヤ人(革命によって故郷を追われてきたロシヤ人)の子供もいましたが、どういうわけかそのロシヤ人の子供をいじめる役はいつもわたしに廻ってきました。わたしの名前は「ヤシロ」でひっくり返すと「ロシヤ」になるわけです。そこで、悪餓鬼一同は、「日本の乃木さんが凱旋す、すずめ、めじろ、ロシヤ、野蛮国・・・」と歌ってそのロシヤ人の子供をいじめたわけです。

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 そういうわたしが、北関東教区に来て、最初に草津を訪問しコンウォール・リー女史の墓に連れて行かれて驚かされました。お墓に詣でて、ふと横を見ると、墓石が二つ立っているのです。よく見ると、ロシヤ人の墓で、ハンセン病で亡くなられた人たちの墓でした。わたしは、その墓の前でしばらくボーッとしていたのを思い出します。

 革命で祖国を追われ、おそらく財産・持ち物のほとんどを失い、はるばる東洋の異国に逃げてきて、子供たちは日本人の悪餓鬼にいじめられ、自分は病気になってこの草津まで来てこの世での生涯を終えた。彼らに信じることのできるものなどあったのだろうか、そんな思いで墓のところに立っていました。彼らを最後まで、絶望させなかったものは何だったのでしょうか。
(写真右:聖母子像・イコン)

 
 ロシヤ正教会ということで、今一つ申し上げたいことは、昭和20年(1945年)三月十日の出来事と関連したことです。年輩の方々はその日がアメリカ空軍の爆撃隊が東京を襲い、わたしが司牧した神田基督教会も灰燼に帰した日であることを覚えていらっしゃるでしょう。
 
この地域で何千あるいは何万の人が命を失われたか知りませんが、「ギリシャ正教入門」という本を書かれた高井寿雄という人によれば、本郷地区の人々がニコライ堂を訪れて爆撃による死体収容所として聖堂を貸してほしいと申し出たそうです。その申し出を受け入れたところ、「次々にトラックが到着、その上から,下ろされるは下ろされるは、戸板にのせられた、茶褐色の、ふくれあがった七面鳥の丸焼きに似た焼死体で、教会の中はたちまち一杯になっちまった。」(23ページ)

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当時ニコライ堂の責任者であった小野主教さんは、「これらの死体が全部、身内に引きとられるまで、毎夜、教会の中で一人『リティヤ』(追悼式)を捧げていたとのことである」(24ページ)と高井氏は記しています。日露戦争のときロシヤ正教会の人々はずいぶんいじめられたと聞いていただけに、考えさせられました。
 
 行動主義的な西方教会とは対照的にロシヤ正教会を含む東方教会は静寂主義、あるいは敗北主義とでもいうか、静かに瞑想と祈りの信仰生活を守り続けてきたと言われています。国家と対決するといったことは東方ではなかったと言って、批判する人もいます。そういった見かたは、東方正教会の一面だけを見ているのではないでしょうか。
(写真上:ニコライ堂聖堂内部)
 
 キリストの十字架上の死よりも復活の方に力点を置く東方正教会の人々は、支配者がイスラム教徒となろうが共産主義であろうが、キリストは決して自分の教会を見捨てられないという確信をもって復活の勝利をひたすら待ち望み、絶望しか持ち得ないこの世のすべての人々のために執り成しの祈りを捧げてきたのだと言えます。
 
博物館になった聖堂が再び発見されて、人々に祈りの時を告げるのを見るとき、人間の力を越えた神さまの恵みを感じないわけにはいきません。

「はんの木」<榛名聖公教会・教会報>イースター号  1992年4月19日

上記の写真3枚はインターネットに掲載されたものを転用させていただきました。

再び復活について

逆説的信仰
        八代 崇

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」
                         ヨハネ11・25

 聖書には、わたしたちが「逆説」と呼ぶような表現が多く使われていますが、主イエスを信じる者は死んでも生きる、といったこともその一つでしょう。

 ふじの花
日本語にも逆説的な表現はあります。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などはその典型でしょうが、これは聖書の逆説的表現と同じものでしょうか。

 「逆説」というと何か嘘、偽り、信じられないことといったイメージが湧きますが、言葉(パラドックス)の原意からいうと、「一般に受け入れられている見方を超えるもの」ということです。聖書の逆説は、神のなさる業は人間の常識をはるかに越える深遠なものだということを言っているのです。
 
 「逆説」ということで、頭に浮かぶ作家はドストエフスキーです。十六歳で母を失い、十七歳で父を殺され、自分も過激な思想に染まったとして、シベリアに流刑されたのが、ドストエフスキーでした。

 
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その異常な体験のためか、ドストエフスキーの書く小説には逆説的なことが多いようです。『地下生活者の手記』では「苦痛は快楽である」とされ、『罪と罰』では売春婦ソーニャがキリストを表し、『白痴』では、ムイシュキン公爵をして純潔を白痴のうちに求めさせ、『カラマーゾフの兄弟』では、キリストが異端審問官の前に引きずり出されます。
 
しかし、徹底的な懐疑主義者と言われたドストエフスキーは、反面、徹底してキリストを信じる人でもあったようです。若き日に、シベリアへ送られる途中、トボリスクというところで女の人から福音書を渡された彼は、終生その福音書を側に置き、1881年(明治14年)1月にこの世を去るとき、妻のアンナにその福音書を読ませ、息を引き取ったと言われています。
 

「私は棺を覆われるまで不信と懐疑の子です」と言いながらドストエフスキーは、続けて、「たとえ、真理がキリストの外にあるとだれかが証明しても、私はむしろ真理よりキリストとともにあることを望む」と書き記しています。
 
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ドストエフスキーが体験した逆説的信仰は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」式の一か八かの冒険でもなければ、助かることを計算した偽りの告白でもありませんでした。雪と氷に閉ざされた、苛酷なシベリアの流刑地で、絶望のどん底に突き落とされてなお、その絶望こそが希望であることを、彼は確信しえたのです。
 
 主イエスの弟子たちも復活を信じられずに逃げ去り、キリストも十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と絶望の叫び声をあげられたのですが、その徹底的な絶望こそが、復活の勝利をもたらしたのだという逆説的信仰が、ドストエフスキーを支えてくれたのでしょう。
 
「わたしを信じる者は死んでも生きる」と主イエスは今もわたしたちに語りたもうのです。

写真:新座市の自宅の庭で、崇が育てた藤の花と紫陽花がみごとに開花したものです。


(教区時報178号1993年4月)
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Author:eyyash
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