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主の証人として

「主の証人として」

  通夜の説教者:広田勝一司祭・現在北関東教区主教・立教学院院長 1997年3月16日

わたしたちは、去る三月十二日午後十一時四十分に、世を去りし主教ヤコブ八代崇師父をおぼえて、ここに集まっております。残された者、ご家族の方々はもちろんのことでありますが、わたしたち一人ひとりに大きな悲しみがあります。主教按手式5縮小_0001

主教さん、とわたしは呼ばせていただきますが、主教さんは、ここ数年は、日本聖公会の首座主教ということもあり、その職責は大でありました。しかし何よりもわたしたち北関東教区の主教として、この十二年余りをともにすごしてまいりました。

主教さんは、それ以前は、長らく、立教大学の教員として、教えておられました。専門は主にイギリス教会史であり、まさにその面では日本の第一人者でありました。ただ主教さんは、そうした学問のみならず、教会にもかかわってこられました。その主教さんを、わたしたち北関東教区は、1984年9月15日に開かれた臨時教区会で、教区主教としてお迎えすることになったのであります。当初は立教も兼ねられておりました。
 (写真右:北関東教区 主教座聖堂・マツテア教会で1985年1月15日主教按手及び着座式が行われました。)

教区における主教さんは、だれしもその温厚さとともに筋金入りの、しかし親しみやすい主教さんとして、みなさんと接せられました。わたしも立教時代から、主教さんには、専門は異なりましたが、いろいろな面で身近かに接する機会が多くありました。
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教区におきましては、主教になられてから、わたしもこれまで常置委員のつとめもありましたので、主教さんのさまざまな影響を随分と受けてまいりました。わたしたちの教区に主教さんとしてこられた時、当教区は正直、財政面におきましても苦しかった訳です。主教さんは、教区会ごとに、宣教と財政の確立ということを強調されておりました。これまでの教区会の主教告示を読むごとに、主教さんがわたしたちに一体何を訴えたかったのか?その痕跡を見ることができるのであります。(写真左:外国(アメリカ、韓国、バングラディシュ)の主教を含め十余名の主教による按手が行われる)

それまで本当に元気でおられた主教さんが1987年に脳に異常があるのがわかり、1988年に入りすぐに脳腫瘍の手術、さらに夏には、肺の手術と続いたのであります。親しい方には、主教さんは、自らの手術後のなまなましい背中の写真を平気で見せてくれたりしました。写真好きの主教さんならではのことと思います。わたしもこの十数年間に、主教さんに知らず知らずして撮っていただいた写真がたくさんあり、今にして思えば、一枚一枚がなつかしくもあります。

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こうした病からも回復された主教さんは、教区はもちろんさまざまな教育機関等におきましても、よき牧会者として、また教育者として、その職務を果たされました。何が本質的なものであるか?そうした物事をみきわめる判断力、そうしたものも長年学んできました歴史の見方と深くかかわっていたように思えます。わたしなどは、すぐ直面した問題にあわてふためくことが多かったのですが、主教さんは、やはり、スケールが大きかった、そう思うのであります。(写真右:祭壇中央でひざまずく崇)
 


主教職としての働きの一つに聖堂聖別式というのがありますが、教区におきましては、
下館以来しばらくなかった聖別式が、主教さんの時には、栃木、この志木、そして幸手と続き新しい聖堂が建てられました。この礼拝堂も、隣のマンションと共に、1989年に着手を決定し、そして建てられたのであります。
 
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さまざまな主教さんの歩みを思い起こせば、枚挙にいとまがないでありましょう。先程も少し触れましたが、学者としての歩みもありました。イギリス教会史、とりわけイギリス宗教改革史の研究者としては、代表的存在でありましたので、もっともっとその研究成果を発表していただきたかった。

あのやさしい主教さんの微笑みのかくれた部分には、学問に対する厳しい姿勢というものがありましたが、決して人にはそうした面を見せませんでした。
 
日本聖公会が定めた定年まであと五年近くありました。残されたこの期間、教区成立百年を迎えたわたしたちは、主教さんを中心に新たな百年を目指して、前進していきたかった・・・。

しかしわたしたちの主教さんは、神のみ心なのでありましょうか?この地上における生涯を閉じられました。わたしたちはこの世における別れをつげることになりました。一人ひとりにさまざまな想いが浮かぶことと思います。わたしもそうであります。(写真左:新主教として誕生. 写真下:式後の祝賀会で)


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主教さんはこの一年は、特に、歩行の困難もあり、苦しかったと思います。それでも昨年の四月の教区合同礼拝にもお元気な姿をみせてくれました。父親としての主教さんは、昨年六月にはお嬢様の知子さんの結婚式ということもあり、新婦の父親としての役割を、杖をつきながらも、しっかりと務められました。そして何よりも九月二三日には、教区成立百周年記念礼拝を行い、主教さんから車イスでしたが、わたしたちは、感銘深いメッセージを聴くことができました。礼拝が終わり、いよいよ退堂の時になりました。主教さんは突然、そばにいたわたしに、「オレも歩いていくから」と言って車イスから降りられました。主教さんはいったん言いだしますと、なかなかあとに引きませんので、不安もありましたが、転ばないように気をつけながら、杖でもって聖職とともに退堂したのであります。

昨年の十一月の教区会も顔にはだしませんが、痛みをこらえてその議長の務めをまっとうされました。
 
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しかし十二月から今年に入り、具合はだんだん悪くなっていったようであります。にもかかわらず、主教職としての堅信式についていえば、一月十五日、痛みをこらえながらここで四名の方を按手されました。そして堅信式はそれが最期となりました。なお逝去された三月十二日の晩は夕食もめしあがり、お元気の様子、それが突然夜、急変いたしまして、近くの病院に運ばれたのであります。呼吸困難もあり、午後、十一時四十分逝去されました。わたしも駆けつけましが間に合いませんでした。(写真左:聖別された栃木聖アルバン教会)
 
思えば主教さんのまさに燃焼された六十五年の生涯であったと思います。主教さんがわたしたちに残されたもの?各人はそれをしっかりとらえなおしていきたいのであります。

 さてわたしたちはこうした中であらためて死というものを見つめなおします。確かに死は終わりかもしれません。そして人間的な感情からすれば死はたしかに耐えがたい悲しみであります。
(写真下:栃木アルバン教会の信徒たちと。左端が広田司祭・現主教)

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しかしわたしたちは終わりに新しさをみるのであります。この世の歩みは終わったかもしれない。しかし新たな希望にみちた世界の中に生きる、そういうものであります。その意味におきましては、死というものは、永遠の入口となるのであります。そしてそれは希望に満ちたものであります。ですからわたしたちは、ある面では、非常に悲しい主教さんとの別れである。にもかかわらず、死をのりこえた希望をみすえつつ、主のかわらない愛のみもとにある、そのことを信じて、感謝を捧げるのであります。これが信仰なのであり、こうしたことを可能にしたのが、イエス・キリストなのであります。わたしたちの主教さんは、そのイエス・キリストの証人としてこの生涯を全うしたのであります。
(写真下:志木聖母教会定礎・祝福式。右端:広田司祭・現主教)
 
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先程少しふれましたが、教区は昨年、教区成立百周年を迎えました。その記念の礼拝で主教さんは、新たな世紀を目指してわたしたちにメッセージを語られました。それが小冊子となって多くの方々に届けられております。わたしたちの主教さんは、あまり難しい宗教論のようなことは語りませんでした。ただ変わらない真理というものを、わたしたちにたんたんと示して下さった。そのメッセージは、4章に分かれております。最後の章の見出しは、意外に見落とされがちですが、それは「キリストを証しする人として」と題されております。
 
表題というものは語らんとするポイントを的確にその意図をふくめまして、よく示されているものであります。キリスト教始まって以来、変わらないわたしたちの務め、それは主イエス・キリストの証人として生きる! そのことを強調されたのであります。この宣教の真髄、明快な真理というものが、ややもしますと、さまざまな議論の中で見過ごされてしまいがちであります。「主の証人として生きろ!」ここに信仰者のすべてがかかっている!主教さんは、今もここに集まっているわたしたち一人ひとりにそう語りかけているのではないでしょうか?
 
わたしたちは再び、希望をもって、お会いできるその時をおぼえて主教さんをおくりたいと思います。残されたわたしたち一人ひとりが、こうした再び会えるという慰めをうけ、主にすべてをゆだねていきたいのであります。
 
最後に、わたしたちは、今もやすらかな主教さんの微笑みの背後にある「主の証人として生きる」という、わたしたちの生きざま、生を問われる、この根本的なメッセージに応えていくものでありたいと願うのであります。悲しみから希望へと、そして新たな決意へとかえられていきたいのであります。
 父と子と聖霊のみ名によって アーメン
(3月16日通夜説教)

来る3月12日は八代崇の召天16周年目になります。
現在、北関東教区の広田主教が当時司祭として、崇の通夜の説教をされました。
1985年に崇が北関東教区の主教となった時のことを思い出し、その時の写真を選びました。洋子記

八代さんを語る

「八代さんを語る」 元立教大学総長・元日本私立大学連盟会長・濱田陽太郎

八代さんが逝去された。信徒ならその昇天を祝いとするのだろうが、ノン・クリスチャンの私は、やはり悲しい。しかも私より6歳も若いというのに、激痛からの解放をよかったと思う反面、医学の現段階を恨みたく思うのも、ぐちなのだろうか。
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彼は不思議な人だった。理屈をこねる人でもない。情にからんだ言い方をする人でもない。イデオロギーを主張する原則主義者でもない。喜怒哀楽を大げさに表現する人でもない。それなのに彼の主張と依頼をいつの間にか納得せざるを得ない心境にさせてしまう魅力をもった人だった。

彼はたしか神戸二中の出身だったと思うが、八代家に生まれてこなければ、立教へ進学する道を選ばなかったであろうと思うのは、当時、兵庫で中学生活を送った私にとって進学の常識だったと言える。立派な父を持つとそういう生き方になるのかもしれない。彼はそれをぐちったことは一度もない。彼は自分の人生に正面からぶつかり、すなおに人生を受け入れて、淡々と生きてきたように思えてならない。

敗戦後アメリカに学び、苦学し、かなりアメリカ人から敗戦国民の一人として、いやな待遇を受けたようだが、それを語る時も、決して恨み言のようには語らず、己れの人生への糧であったように語るのには、頭の下がる思いがしたものだった。(写真下:立教学院諸聖徒礼拝堂で行われた追悼式。司式は広田司祭、現主教)



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私は呑み助だから、八代さんとも酒席でともに話す機会が多かった。ことに、私が1980年に野球部長になった頃から、アメリカン・フットボールの部長、体育会幹事そして体育会長をやられたのだから、そちらの方のお付き合いが多くなったのも自然だったのだろう。彼もアルコールは好きだった。
「がらしや」「ちちぶ」「なかがわ」「ささしゅう」こう書いてくると立教に関わりのある人は、ああ酒をたしなむ?店だなとすぐおわかりになるだろう。代替わりしたり、廃めた店もあるが、これらで二人で、または数人でよく飲みよく語ったものだった。彼は酒に乱れるのをきらっておられた。 でも、乱れた人にからまれても自然体で応じておられた。いくら飲んでも静かに微笑をうかべながらゆったりと語る人柄であった。彼と一緒にいると何となく心にやすらぎを感じる雰囲気をただよわせた人だった。
 

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こう書いてくると彼は何でも受け入れ、八方美人的柔和妥協の人と思われるかもしれないが、決してそういう人ではなかった。芯の強い、頑固といってもいい程、人をみる眼のきびしい人だった。めったに人をそしることのない人だったが、権威主義的な人、口では人権を説きながら行動では別なことをする人、このような人には、大学人であろうが、聖職の同僚であろうが、烈しく批判する人でした。時には私が辟易する程、理非曲直を論ずる人だった。私も頑固と言われている人間ですから、彼のそのようなところも大好きでした。ああいう烈しさは、私流にいわせれば本当に人間を愛している人のみがもてる烈しさだと言うべきだと思う。(写真上:追悼式後の偲ぶ会で語られる濱田総長)
 
立教大学で同じ文学部に籍を置いた者として、私は彼の学識はもとより、すぐれた人格に敬意をいだいていました。彼は、誰もがいうように「イングランド宗教改革史研究」に代表される英国教会史の我が国における第一人者としての研究者であるばかりでなく、キリスト教学科はもとより全学的に学生を愛する教育者として、また「アングリカン・コミュニオン」に連なる日本聖公会の首座主教として、私たちを常に導き、指針を与えつづけてこられた。
 
幸い、私は、彼の研究と同時代のイギリス教育史を学んでいたためその内容をかたり合い、ヘンリー八世のさまざまな生き方を論じ合い、この皇帝の人間臭さに笑い合ったのも、いまとなっては楽しい思い出の一つだった。
 
彼は、多くの研究者が避ける大学全体の管理運営にも正面からその役割を果たしてこられた。文学部の研究センター長を始め、学生部長、学生相談所所長、アメ・フト部長、体育会会長等々、やっていないのは文学部長と総長だといっていい位、立教の学生たちのために、そのエネルギーを注いでこられた。
(写真右下:キャンパスでの開所式、テープカット一番手前が濱田総長、3番目が八代崇) 

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1986年に、彼と私が推薦委員会から他の同僚たちと共に、総長候補者として推挙された時、私は彼にあなたこそ立教大学の総長に相応しい方だから私は辞退すると告げた。ところが彼は私に対して「今の立教ではあなたが総長候補者として最適です」と言って結局さっさと候補者になることを辞退してしまった。かなり押問答をしたのだが、さきに述べた彼の頑固な信念と、いつのまにか人を説得させてしまう人柄が見事に成功して私が候補者を受けるといういきさつになってしまった。

当時の八方ふさがりの立教大学の状況に風穴をあけてくれという彼のひたむきな希望と彼の助けを期待して受けたのかもしれない。またあるいは日本聖公会北関東教区主教であった彼は「主教や司祭という聖職が、そう易々と総長職などやるべきではない」と思われたのかもしれない。でも、後に私が是非、院長として私を助けてほしいと申し上げた時、一層多忙になっておられたにもかかわらず心よく引受けて下さったことには心から感謝している。以来、毎週ある常務理事会に、病の時は別として、それ以外は、ほとんど欠席されず、なにくれと私の提案をサポートして下さった。百万の援軍よりも、私にとってたのもしい同志とといってはばからない。
 

その中の一つに、立教の再生のために五十億という私学振興財団すらあきれた募金活動があった。彼は院長・常務理事という立場でこの計画に賛成してくれただけでなく、募金に率先して範を示され、それに見ならっていただいたのかどうかは別として、聖公会有志からの絶大なご協力を受けることができた。誌上ながらご協力いただいた方に心からお礼を申し上げる次第である。
 
そして池袋キャンパスには学生関係施設「ウイリアムズ・ホール」及び新七号館が落成し、新たに立教大学新座キャンパスを開設することができた。その度に彼は「濱田さん、まず学生の施設を優先して下さい」と私の気持ちと一致する励ましをしてくれたものだった。これらの起工式・落成式には、常に私の隣に彼の姿があり、彼の祈りが関係者を祝福して下さったのをうれしい思い出の一つとして残っている。
 
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1989年不幸にも彼は病をえた。脳を手術するという。立教の通常の選択として聖ロカ病院に入院するという。多少語弊をかえりみずのべるが、その時、私は「今の医学はそれぞれの病の場所、種類によって専門医が細分化されている。病院は患者に選ぶ権利があるのだからもう一考してはどうか、私もあなたに合う医をさがしてみる」と申し上げた。聖ロカには聖ロカでなくてはならぬ専門医も特色もあるだろうが、それを含めて再考をねがったのである。ところが彼はしばらく考えたあとで「ありがとう。しかし私は今のままでいい。神の御手にゆだねるよ」と静かに話された。

もう私にいう言葉はない。ただ祈るだけだった。そこに私は彼が聖職者であるということを感じた。彼が無事私たちの前にあらわれた時、本当に深い喜びをうけたものであった。残念ながら、その後度々の手術を受けたが、最後は夫人の看護にゆだねたという。何ともいいようのない思いである。彼は肺がんが主だったようだが、私も93年食道ガンにかかった。同じガンなのに若い者が逝き、年を取ったものが生き残る。世の無情とはいえ、かえすがえすも無念である。(写真左:脳腫瘍手術を終え、聖ロカ国際病院の前に立つ崇)
(写真下:知子の結婚披露宴でご夫人と濱田総長、左端は広田司祭、現北関東教区主教、立教学院長)
 

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大学の卒業式・入学式に院長としてお話をする機会がある。彼の話の中で感銘を受けたものがある。彼は院長だから立教のよってたつキリスト教の教育をお話になるのは当然なのだが、単に聖書を引用してそれをお話になるようなことはあまりなさらない。

彼は異端を愛せよとお話になった。とかく宗教は排除の論理で異端をきらう。しかし異端をも包みこめないでどうして人を愛するといえるか。パウロの生きた道をみなさい。諸君が社会へ出ても、学内でも、異端をも包みこめる人間になってほしい。おおよそ、そのような趣旨でお話になる。
 
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私は聖職者からこのような話をきいたことはなかった。私はこの教えを守りたいと思う。人を愛するということのむつかしさ、寛さを彼は示してくれたのではなかったろうか。
 私はめったに人をほめない人間なのだが、彼だけはほめてあげたいと傲慢かもしれないが、心からそう思う。
 
彼は私の知らない面ではどうだったのだろう。よき夫、よき父であったのだろうか。多分そうだったと思っている。次女の知子さんの結婚の宴に列席させてもらったのだが、ずっと杖をついて知子さんを微笑みながら見ておられた姿、そして通夜の席で泣きじゃくっていた知子さんの姿を見た時、その答えは出たと私は思った。
 (写真上:次女知子を連れて祭壇に向う)
また先に亡くなられた兄の欣一さんが、私と会う度に何はさておいても「弟をよろしく」とおっしゃっておられた姿も忘れられない。

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八代さん、ゆっくり安眠して下さい。私は生きている限り、あの結婚式が終わった時、私を送って下さる時に見せた笑顔を忘れないだろう。
さようなら。

立教学院諸生徒礼拝堂発行:チャペル・ニュース 1997年4月号から

濱田陽太郎先生は八代崇の逝去1年後の4月に崇の後を追うように亡くなられました。
日本聖公会 東京教区聖アンデレ教会で葬送式が行われ、千葉の教会墓地に埋葬されました。

ソルスベリーの虹

ソルスベリーの虹      
              鈴木育三
      
二十三年前の夏、立教大学主催のヨーロッパ研修旅行に、チューターとして参加しました。
リーダーは八代崇教授。研修目的は英国の福祉を学ぶことにありました。

(写真下:右から5人目 筆者の鈴木育三氏 7人目<一列目中央>八代崇)

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私にとって初めてのヨーロッパ旅行でしたので不安と緊張でいっぱい。羽田からモスクワ経由でパリへ。
 機上の人となるやいなや、教授は、「まずは、ワインで乾杯しよう。今度、スチュワーデスが来たら、
 de vin rouge s’il vous plais, といってごらん。」という。
 「ドゥヴァンルージュ、スィルヴプレ」。赤ワインが登場。以来、私の唯一のフランス語となりました。

 フランスの旅で、今でも思い出深いのは、ボーズ平原に建つシャルトルへの巡礼。初めて目にするゴシックの大聖堂(カテドラル)。正面扉口タンパンには、「聖母子」、「荘厳のキリスト」、「キリスト昇天」が刻まれ、聖堂内は真夏の日ざしが、ステンドグラスを透してさし込み、深い海の底にいるかのよう。三つのバラ窓は、さながら空に浮かんだ花火のように見えます。
「シャルトルの魅力は、ステンドグラスの美しさ、聖堂の荘厳さにもあるが、クリプト(地下聖堂)にある」と教えられたのは、この時。
 
 幾時間も、ここに留まって、教授の講義を聴き続けたいと思いましたが、パリへもどる列車の時刻が来てしまいました。
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帰途、ヴェルサイユ宮殿に立ち寄ったのはよかったのですが、宮殿内で教授とはぐれ、同行の学生たちと汗だくになって、アチラ、コチラ探し歩き回りました。意を決して、学生たちとパリへ帰ろうと宮殿広場に来ると、ルイ十四世騎馬像の下に教授に似た人物が座っています。
 近づいてみると、一休みしていた教授は、「アレ、ここで落ち合うことにしていたのじゃなかったカナ」と平然とのたもうた。
 ヴェルサイユには「便所が無かった話」も面白かったが、教授は秘かに、マリー・アントワネットの「田舎の家」を訪ねていたとのこと。
(写真:ヴェルサイユ庭園の中のマリー・アントワネットの〝田舎の家″)


 カレーからドーヴァ海峡を舟で渡りましたが、白い壁は、雨にけぶって残念ながら見えません。
 
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英国へ渡った私たちは、ガイドよりも、教授の説明に熱中しました。
 ロンドン塔に行けば、守衛をみて、「彼等は、ビーフ・イータというのだ。つまり牛食いだナ」。
 「ここのカラスの先祖は、タワーヒルの処刑者の肉を食ったそうだ。」という。首切り台や、あの斧を見れば、  そう見えてくるから不思議。
 ウェストミンスターでは、「これが戴冠式の椅子だヨ。石が入っているだろう。持っていかれないようにしてあるのサ」。
 トラファルガー・スクエアで、「ちょっと入ってみようか」と奇妙な店に入りました。
コインをいれてノゾキ穴から見ると、今日風のAVが見られる仕掛。アッという間にコイン切れ。
 コーチから窓の外を見ていると、「ウ―ム、この辺だナ。処刑場のあったところは・・・。首つりだナ」。教授の目には、私たちに見えないイギリス宗教革命の時代が見えるらしい。
 「ここだ。クランマーが火あぶりになった場所は」と、オックスフォードのクライスト・チャーチの余韻に浸っている間もなく説明する。(写真:前列右から二人目が鈴木育三氏)
 


ストラットフォードーオンーエイヴォンの住居
シェイクスピアの生誕の地、ストラットフォード・アポン・エヴォン。
 「これなんだか分かるかい」と杖のついたナベみたいなものを指さして、「これはネ。炭を入れてベッドを温めるんだヨ」ナールホド。西洋のアンカというわけだ。
 シェークスピアの墓所を訪ね、アン・ハザウェイス・コティジの庭で、教授は「これが英国の味だヨ」とスコーンと紅茶の美味しさを教えてくれました。ハーフティンバーハウスのブラック・アンド・ホワイトの美しさが、窓辺に飾られたゼラニュウムの真紅の色とともに今も脳裏に焼きついています。
(写真右上:ストラットフォード・アポン・エヴォンの家並み)
 
バース、ウェルズの大聖堂、そしてグラストンベリー・アビィーの廃墟を訪ね、ロンダの町へ。
 産業革命によってバブルした炭鉱の町ロンダ。その爪跡は、山肌に刻まれています。町の入口には、「富みよりも徳望を」と書かれたアーチ。
 
 ソーシャル・センターを訪ね、ここで初めて、車椅子ごと乗れるリフト・バスにおめにかかりました。
 チリン、チリンと鈴が鳴り、ここでも、スコーンをいただいた。今でもスコーンを焼いてくれたヴォランティア のおばさんの顔を思いだす。「ウェルズ人は、人情が厚いヨ」と教授が言ったっけ。
 
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(写真左:通りの中央を歩く八代崇)

夕闇が迫る頃、海沿いのリー・アビィーにやっと到着。学生たちは、ここでキャンプ・イン。
 旅に疲れた身を近くのホテルで休めていると、学生が二人失踪。地元の警察が捜しているとの報告。フランスで も同様のことがありましたが、ここでも教授は、少しもあわてず、「大丈夫だヨ。見つかるヨ」といって、
スコッチをお飲みあそばしておられた。案の定、しばらくして、二人は無事帰還。チョト、近くでランデブーし ていたらしい。
  
 


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翌日、教授と私は、一泊の旅に出ることになりました。近くの駅で往復切符を買い出発。
 まず、ソルスベリー・アビーへ。大聖堂は、あまりにも美しかった。その荘厳な尖塔の上に、八月の午後の陽が、大きな虹をかけていました。生涯忘れることの出来ない光景。
(写真右:ソルスベリーの写真、カードの絵より)

 次にウィンチェスターへ向かうことになった。教授は、「腹がへったが、今日はバンキング・ホリデーで銀行業務は休み。まあ安上がりにいこう」と、フィッシュ・アンド・チップスの店に入ることになりました。
 こうして揚げたてを、新聞紙にくるむンダ」。英国庶民の味は、空き腹には大層うまかった。
 
 ウィンチェスターに着いた時は、もう暗くなっていた。安宿を探してグルグルと大聖堂の周囲を巡ったが、
 結局、近くのホテルに宿泊することになりました。
 教授が「小銭があるか」と聞く。ポケットから少し出すと、すまして、ボーイにチップを渡す。
 部屋に入ると、「紅茶がある。これを飲んで我慢する」。しばらく休息した後、「オイ、パブに行くぞ」。
 カウンターで酒を注文する教授。今日は、金が無いと言っていたのに変だと思っていると・・・
 「アハハハ・・・。こういう金は持っているのサ」とケロッとしている。 
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(写真左:旅行中、くつろぐ八代崇)
翌朝、目にした大聖堂の大きさには驚かされました。聖堂内は、まるで墓所。床には、いたる処にタブレットがあり、周囲には、王侯貴族・高位聖職者の棺。中には、首をチョン切られた像があります。まるで歴史博物館だ。教授は、「これは十二世紀の黒大理石の洗礼盤。これは、×××のチャントリー。」次から次へと教授は解説を続けていく。
 「ジャンヌ・ダルクもいたナ。確か、レディス・チャペルの近くだったと記憶するが・・・。」
覚えきれない程の徹底的な実物教育を受けました。
 
次にエクセターに立ち寄る。ソルスベリー、ウィンチェスターの大聖堂を見た後では、もはや驚きはしないが、十四世紀の大時計、キャプテン・スコットの南極大陸探検の旗が掲げられているには、少々感激。 
 教授は天井を指差し、「あそこにトマス・ベケット斬殺場面の装飾がある。四人の騎士が、ひざまずく大主教に剣を振り下ろし、それをクロスベアラーが防いでいる」と深い思いをこめて説明してくれた。
 
 エクセターの駅に着くが、列車は来ない。駅員に聞くと、その列車はセントラル・エクセターから出発するので、この駅は通過するという。
 そこから坂道をころげるようにセントラル・エクセター駅まで走りに走った。列車に乗り込むと、待っていたかのように、動き始めました。
 これで珍道中は終わりかと思ったら、下車駅で乗ったバスが途中でエンコ。その時、教授少しもあわてず運転手と一緒に近くのパブに入り、チョット一杯。とうとうこのバスは動かなかった。

 遠い昔の夢のような八代教授との旅。教授は、私に生涯忘れえぬ素晴らしい思い出を残してくれました。
 
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(写真上左:崇画サンチャゴさんのスケッチ 写真右:サンチャゴの像を眺める崇)聖ヤコブ(サンチャゴ)は崇の洗礼名

昨年十二月、志木の主教宅を訪ねた折『サンディヤゴ』さんの話になった。岡野主教の贈ったスペイン・聖ヤコブの聖地のお土産を見ながら、コーチに座ったヤコブ主教は「実は、まだスペインに行っていないんだヨ。もし行くとしたら、役職も地位も離れて旅をしたいネ」とボソッとおっしゃった。

 数ヵ月後、三月十二日ヤコブ主教逝去の知らせを受けた。予期された事とはいえ、寂しかった。
 棺の中のヤコブ主教の顔は、英国の大聖堂で見た聖人の顔に似ていた。何故かあのソルスベリー大聖堂にかかった虹を思い出しました。
 
サンディヤゴさんは、旅に出た。全てのものから自由になって・・・。
 今頃は、サンディヤゴ・デ・コンポステーラの巡礼者たちを見守っているかナ・・・。


(八代主教には、社会福祉法人新生会後援会、第四代会長職をおとりいただき、絶えず祈りをもってご支援いただきました。心より感謝いたします。また、お陰様で、念願でありました、「桜が丘三ホーム」の完成記念式を四月十日に行いました。)

社会福祉法人新生会 榛名憩いの園 園長 鈴木育三 昭41年英米文学科卒)


立教学院諸聖徒礼拝堂発行: チャペル ニュース (1997年4月号)より
今年は主人没後16年になります。この記事は39年前のお話です。妻・洋子記 

心に生きる八代先生 3

心に生きる八代先生 3  

病気と八代先生       大郷 博

「おもしろいもの見せようか。これ術後3日目、これ5日目・・・。何ならどれか一枚あげるわ。好きなの持ってって」。
 
 脳腫瘍の手術をされた八代先生を見舞いにいった私。いささか緊張気味で病室に入った。そんな私を気遣うかのように、先生はニコニコしながら数葉の写真を見せてくれた。それは手術後の頭部を自分で撮った実に生々しい写真だった。先生は病気を茶化していた。
 
「この人は自分の病気の大変さを分かっていないのョ」と洋子夫人。そばでニヤニヤしている先生。
 なんぼ病気音痴の人であったとしても、その深刻さを知らないはずはない。大病をも茶化してしまうその姿に、私は先生の底知れぬすごさを見た。
 
 脳腫瘍と肺ガンの手術を終えて後、先生は産声をあげたばかりの「あぶらむの里」を訪ねてくださった。他の来客も重なり、その日、天然の岩魚の骨酒をふるまった。大ドンブリによく焼いた魚を入れ、それに熱カンの酒を注ぐ。岩魚のそれは天下一品の味。参加者全員で一口ずつ、まわしのみする。

 一周目、ドンブリが先生の前にきたとき、「これは私の大好きなものですが、現在は医者と女房に禁じられておりますので失礼します」と次に回された。

 二周目、「皆さんおいしそうですね、またニオイもかぐわしく」。

 三周目、「ちょっとニオイをかぐだけはいいですか」。
 
 四周目、「ちょっとなめるだけ、いいですか」。
 
 五周目、「ちょっと一口だけ、いいですか」。先生のあまりものいじらしさに、「先生、この際好きなだけのまれたらどうですか」と言った私。
 
 「そうか、そんなら、ちょちょっとだけいただくわ」。「あぁーうまい! 死んだ後、八代を偲ぶ会で、遺影にむかって献杯と言われるより、生きているうちに飲む酒の方がうまい!」。そう言い切った先生の一言、私は忘れることができない。
 
 すごい人だった。天国での再会が楽しみな人でもある。
 
 
 おうごう・ひろし師は1975年から三年間、当教会で八代先生を指導司祭として、勤務された。(当時、聖職候補生~執事)その後、立教大学チャプレンを経て現在、岐阜県・国府町で、人生の旅人と語る「あぶらむの会」主宰。

写真:入院中の八代崇         
聖ロカ入院記録3縮小写真下:脳腫瘍手術後の傷跡を自分で撮影したもの
聖ロカ入院記録2縮小







写真下:あぶらむの里での酒盛り。右端:大郷 博、左から二人目:崇
               
大郷さんとあぶらむの里で酒盛り



心に生きる八代先生 2

心に生きる八代先生
  
「趣味いろいろ」    神田基督教会信徒 中島務

八代先生は多彩な趣味をお持ちでした。
 
 まず、これは趣味とは言えませんが、神田教会では「チョコレート」と隠語で呼ばれたお酒です。世界の酒事典を開いては、  このウイスキーは飲んだが、こっちのはまだ飲んでいない、今度海外に行ったら手に入れてこようと、グラスを傾けながら悦にいっておられました。そのお酒を飲みながら、説教の原稿を書いたり、本を読んだりしていらっしゃいました。

 テレビといえば、スポーツ観戦はなんでもござれで、野球・相撲・アメフトなど。実際、剣道・野球・アメフト・ゴルフをされていました。立教大学教授のかたわら、アメフト部長や体育会会長を務めておられ、スポーツに対する関心は大変なものでした。

 また、どこへ行くにも大きな写真機と三脚を持参され、集合写真を写真屋のおやじさん気分で撮っておられたのが印象的でした。

 油絵は先生にとって心が休まるひとときではなかったでしょうか。油絵を毎日コツコツと描かれ、神田教会のバザーのオークションに10枚ほどを出品。教会員の驚嘆を得て高い価格で落札されたこともありました。

 そのほか、チューリップの花づくりや料理も趣味としてお持ちでした。
 どの趣味をとっても一流。そして、一流の牧師の八代先生でした。
「神田基督教会・会報71号」  1997年6月8日発行

清里キャンプ、1984縮小

写真は夏のキャンプで
   
前列左が中島務さん 
並んで右が岡登五郎さん
    
最後列右から二人目 
 岡登正子さん

 
カメラマンは
八代崇と思われる



 
 
 清里へ神田教会の皆で夏のキャンプへ行った時のこと。

 皆で一杯やりながら、団欒していました。「食べ物では何が好き?」という話題になりました。
 カレーライス、お寿司、すきやき、焼き鳥などお互いに好物を言い合いました。
 主人の番がまわってきて、「先生の好物は?」と聞かれると、ちょっと考えて、
「チョコレート」と少し恥ずかしそうに答えました。
 皆がどっと笑いました。そしてその後「チョコレート」は神田教会では
「お酒」の隠語となったわけです。

 実はチョコレートが好きだったのです。ヘビー・スモーカーでもありましたが、
 肺がんで煙草を禁じられ、お酒もあまり飲めなくなってからは、
 チョコレートで口をまぎらしていました。ケーキや和菓子など甘いものは
 あまり口にしませんでしたが、チョコレートは別でした。(洋子記)
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