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八代崇講演のご紹介

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主なるキリスト

主なるキリスト
「イエス・キリストは主なり」(ピリピ二・十一)
 神戸ミカエル教会 司祭按手式2
私の恩師であり、戦後長いあいだアメリカ聖公会の代表として日本で働かれた宣教師にケネス・ハイムという人がいましたが、この人は長いあいだ日本にいたわりには日本語がほとんど分かりませんでした。しかし、不思議なことに、大の歌舞伎ファンで、名場面の名セリフを聞くと涙を流していました。冒頭に記したパウロのピリピ人への手紙の個所は、歌舞伎の名セリフに相当すると言えるでしょう。新約聖書の学者は、これは初代教会のイエス讃歌であり、のちの信経の原型となったと言っています。ご承知のように、私たちは聖餐式のたびごとにニケヤ信経を唱え、早祷、晩祷では使徒信経を唱えます。「イエス・キリストは主なり」という告白は、二千年間キリスト者が唱え続けてきた告白です。
写真(上):1959年6月神戸聖ミカエル教会にて父斌助主教より司祭按手受領。推薦者ケネス・ハイム司祭が執事だった崇の背後について祭壇に進む。




主教按手式4縮小
さて、私たちにとっては、この「イエス・キリストは主なり」という告白は、別に抵抗を感じさせるものではありませんが、最初にこの告白を唱えた人々にとっては、きわめて逆説的な、また安易な気持ちでは到底唱えられない告白でした。また人がこの告白をしているのを聞いた当時の人々にとってはとても信じられない告白であったのです。聖パウロはコリント人に宛てて、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」と書き記しています。なぜ、この告白は「つまずかせるもの」また「愚かなもの」だったのでしょうか。

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今日の使徒書をよく読んでみると、相反する言葉が対になって記されています。一方には「神の形、もろもろの名にまさる名、主、栄光」などで、いま一方には「むなしうし、しもべの形、人、十字架の死」などが並んでいます。一方は、尊いもの、価値あるもの、立派なもの、厳かなものですが、他方は、無価値なもの、恥多いもの、駄目なものです。「イエス・キリストは主なり」という告白が「つまずかせるもの」であったのは、しもべの形をとったもの、人間、十字架の上で恥辱の死を遂げたもの、それがキリストであり、主であるというからです





聖マツテヤ教会 主教按手式 1
日本の諺に「からすをしぎと言いくるめる」というのがありますが、だれかが私を指差して、「この人こそアメリカ大統領レーガン氏だ」と言ったら、みなさんは自分の目を疑うか、あるいはそんなこと言う人の頭がおかしいのではないかと考えるでしょう。「イエス・キリストは主なり」という告白を聞いた人々も同じでした。この日本には奴隷制がありませんから、しもべという言葉を理解するのは容易ではありませんが、「しもべ」と訳されている言葉は、奴隷です。「主」といのはそういう奴隷に対して生殺与奪の絶対的権限を持っている人です。キリストとは「油ぬられた者」すなわち、「ユダヤ人が長いあいだ待望してきた救い主のことです。

したがってこの告白は、ナザレ出身の大工の子イエスというこの人こそしもべであったけれども本当は主であり、人間であったけれども本当はキリスト・救い主であったという主張だったのです。このような主張を当時のユダヤ人が認められなかったのは言うまでもありません。ヨハネ福音書では、「わたしは、かれにはなんの罪も見いだせない」と語ったピラトに対して、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼(キリスト)は自分を神の子としたのだから、死罪にあたるものです」(十九・七)と答えています。神は神であり、人間は人間であるという絶対的な区別を主張するユダヤ人にとって、奴隷であり、十字架の上で恥辱の死を遂げた人間が神の子、神ご自身であるはずはあり得なかったのです。



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今日の日曜日は「棕櫚の日曜日」あるいは「凱旋の日曜日」と呼ばれています。今日の福音書から分かるように、エルサレムに入られようとしたイエスを棕櫚の葉を手に「ホサナ、ホサナ」と叫んで迎えたからです。それなのに、この同じ群衆が五日後には、主イエスよりもバラバの釈放を望み、主イエスを「十字架につけよ」と叫びます。彼らにとっては、奴隷の形をとり、十字架の上で無力な犯罪者として刑死する人間が、主でありキリストであるはずがなかったからです。

しかし教会は、この二千年間、このつまずかせるものである、逆説的な信仰告白を唱え続けてきました。今日から始まる聖週では、人間と神、奴隷と主人、十字架の屈辱と栄光、死と勝利、といった到底常識では結びつかないものが、キリストの十字架の死に至るまでの従順によって結びつけられたことを学びます。価値が多様化した現代では、昔のユダヤ人とは違ったかたちで「イエス・キリストは主なり」という告白は私たちにとっても容易ではなくなってきたようです。イエス・キリストに代わる主を何か他のもの、例えばコンピュータに求めたくなります。「十字架につけよ」という叫びのほうが言いやすいかもしれません。しかし、初代教会以来の人々と共に私たちが「イエス・キリストは主なり」と唱えることができれば、復活日は本当に勝利であり、喜びの日であるでしょう。
(カラー写真4枚は1985年1月 前橋聖マツテヤ教会において北関東教区主教に按手された時のもの。)

孤独者イエス

孤独者イエス



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本日から大斎節に入りました。教会は昔から復活日を迎える準備の季節として、大斎四十日を祈りと断食による克己の期間と定めて守ってきました。この四十日という期間が福音書に記されている主イエスの荒れ野における四十日四十夜の試みに倣ったものであることは言うまでもありません。

私たちは家祷会、勉強会、その他の催しを通して、あるいは個人的に何かを断ったりしてこの準備の期間を過ごします。もちろん人それぞれ、大斎の期間、達成しようとする目標は違うでしょうが、私自身は、大斎を、人間というものがまったく孤独な存在であることを考える期間だと思います。





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今年の大学入試も昨日で終わりましたが、最後の試験は普通の問題と違って小論文で合否を判定する試験でした。今年の題は「あなた、またはあなたの家族の社会生活において、自他の共同性を成り立たせている基盤について論ぜよ」というものでした。

さて、論文を読んでいて感じたことは、やはり日本という国は義理人情の国、個人ではなく集団がすべてを規定している国だなということでした。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」といわれるこの国ではみんながやらないことをするのはこわいのです。みんなが大学へ行くから自分も行く。会社訪問ではみんなが紺の背広を着るから自分も着る。普段のジーパン、長髪スタイルでは行かない。「和をもって貴し」とするこの国では、他人と違った行動や生き方をする個性的な人間はのけ者にされやすい。義理人情といったものは、集団が優先するこうした社会の潤滑油の働きをしているのだと思います。



IMG-0203.jpg受験生のうち何人かが、「人という字は二つの棒が支えあっている。人間はお互いに支え合わなければならない。そこに共同性を成り立たせている基盤がある」と書いていました。結婚式での祝辞を聞いているようで感心はしたが、なにか「おんぶにだっこ」の甘えの構造を見せつけられたような気がしました。


人間は、よく考えてみれば、最終的には一人ぼっちなのです。生まれてきたときも一人、死んでいくとも一人。血のつながりといっても、ここ数日、テレビ、新聞で報じられている中国孤児の人たちの姿をみていると、「血は水よりも濃し」などとは言えないと思います。あの孤児たちの多くは、肉親を見い出すことができず、再び中国へ戻っていくことでしょう。自分を生んだ父母、自分の兄弟姉妹を知ることもなく、あとの生涯を送ることになるでしょう。




IMG-0207.jpg 最終的には人間は一人ぼっちで孤独だということは、多くの人が旧約聖書のヨブを引き合いに出して語ってきました。しかし、人間が本当に孤独な存在であることを示してくれたのは主イエスでした。キリストの公生涯は四十日四十夜の荒れ野における試みで始まります。まったくの一人ぼっちです。そしてその公生涯はたった一人ぼっち、ゴルゴタの十字架の上で終わりを告げます。



弟子たちは関わりを恐れてすべて逃げ去ってしまいました。それは、義理も人情も、甘えも、連帯、思いやり、私たちがふだんカッコよく使うような言葉が何一つ適用しない絶望的な孤独の瞬間でした。そして主は詩編二二篇の言葉で叫ばれます。
「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいし」と。



17歳立大予科1年縮小
私は中学生の頃、この言葉をめぐって友人と論争し、これは、「神様、あなたはわたしを見捨てるようなことはありませんね」という期待の言葉だと言い張ったことを思い出します。しかし、これはやはり、絶望の叫び、敗北の叫びです。神にみすてられた呪いの叫びです。そこにある神は、入学試験に合格させてくれる神でもなければ、家内安全、商売繁盛を保証してくれる神でもありません。孤独の淵、絶望の谷間にいて呼びかけても応えてくれない神なのです。


この人間の世の中には、連帯感だとか、思いやりだとか、、配慮、善意など、そういった歯の浮くような人間の思いではどうにもならないことがあるのです。先程、中国の孤児の話をしましたが、テレビを見ながらふと思いました。私がそんな極限状態におかれたら、どうしただろうかと。そこで考えます。だから戦争はいけないんだと。しかし戦時中に戦争反対を叫び得た人間が、果たしてどのくらいいたでしょうか。



志木聖母定礎・祝別式縮小
大斎は、人間がまったく孤独な存在であることを考える期間だと申しました。その孤独の極致に十字架を見るのです。だれも助けてくれない。だれも慰めてくれない。だれも支えてくれない。だれも連帯しようなんて言ってくれない。だれも代わってくれない。神にさえ見捨てられる……それが十字架です。  
しかし、キリスト教がただそれだけであれば、キリスト教など無用の長物以外の何ものでもありません。
福音がわれわれに示すのは、十字架上の孤独と絶望が勝利だったということです。絶望に至る孤独を貫徹したとき、神は栄光の甦りを与えられたのです。

孤独の極致、十字架の上で、絶望の叫びを上げられた方の絶望がわれわれの絶望を希望に変え、その方の不信がわれわれの不信を信仰に変えます。もしわれわれが他者のために何かを為し得るとすれば、それは孤独のうちに死に給うたキリストの絶望を勝利に変えられた神の力によるのです。

孤独でしかあり得ないわれわれをして、他の人々との関わりを持たせるために、孤独のうちに死に給うたキリストに思いを馳せる、それが大斎という季節に、われわれが祈りをもってなすべきことではないでしょうか。

(1982年2月24日 聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂における説教)
文中に詩編の句が多く引用されていましたが、省略いたしました。

写真上から:
1.脳腫瘍摘出後間もなく聖路加国際病院にて(1988年1月に脳腫瘍摘出手術、5月に検査のため再入院した時。鯉のぼりが見える)
2..立教新座キャンパス
3.志木聖母教会 (在任中に建てられた教会 同時に付属の高層住宅セントジョンズハウス志木が建設された)
4.同上聖堂内部 (セントジョンズハウス内の主教邸で1997年3月12日帰天。この聖堂で通夜・葬儀が行われた)
5.崇・中学生の頃
6.志木聖母教会定礎式(1991年)
         

正統と異端


正統と異端

しもべども言う。「さらば我らが行きてこれを抜き集むることを欲するか」(マタイ13・24以下)

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 教会とは一言でいえば、ナザレのイエスを救い主と信じ、その教えに従おうとする人々の集まりといってもよいでしょうが、信者も人間である以上、どうしても争いが生じます。

 『正統と異端』という名著を残された堀米庸三氏は「正統と異端とはあくまでも根本を共通にする同一範ちゅう、同一範囲に属する事物相互の対立」であるといい、「教会と(政)党とは常に異物を排泄して健康を維持する有機体に似ている」といっています。

 分かりやすくいうと、違った宗教同士の間では「正統と異端」の問題は生じないのです。同じ信仰をもつグループ同士の間に起こるのが、「正統と異端」であり、それだけに血で血を洗う深刻な争いがしばしば生じたのです。私たちが新約聖書を読むとき、ごく初期の時代から「異物を排泄して健康を維持」しようという傾向が強く現れたことに気がつきます(へブル6・4~6、⒈ヨハネ2・18以下、4・1以下)。
崇 書斎にて 2
 問題は、だれがだれを、どのような基準に照らして「異端」と判じ、また「異端者」をどのように扱ったらよいのか、ということになるでしょう。今日の福音書の物語は、有名な毒麦のたとえ話で、「正統と異端」に関する問題を考える上で重要な示唆を与えてくれます。

大まかにいって、「正統と異端」に対するキリスト者の態度は二つに分けられます。一つは完全主義者のそれで、教会は完全な、聖なる人々によってのみ構成されるべきであるから、罪人は排除されねばならない、という立場です。いま一つは、毒麦を抜こうかといったしもべどもに対して、「いな、恐らくは毒麦を抜き集めんとて麦をも、ともに抜かん。ふたつながら刈り入れまで育つに任せよ」と答えた主人の態度です。

そして、教会は、前者、すなわち完全主義者を「異端的」であるとしてきたのです。なぜでしょうか。
セント・オーガスティン・カレッジ
 この物語の主人の回答に不満を感じた人々としては、初代教会のドナティスト派、中世のカタリ派、16世紀の英国の教会から毒麦を抜こうとしたピューリタンと呼ばれた人々、などが挙げられますが、これらの人々に共通していたことは、自分たちは神によって選ばれた民であり、完全な、良い麦であるという確信でした。

 そういう選民意識を強烈にもっている人々に聖パウロは、今日の使徒書で次のように語ります。
「なんじらは神の選民にして聖なる者なれば、慈悲の心、なさけ、謙遜、柔和、寛容を着よ。また互いに忍びあい、もし人に責むべき事あらば互いに赦せ。主のなんじを赦し給えるごとくなんじらもしかなすべし。すべてこれらのものの上に愛を加えよ。愛は徳を全うする帯なり」(コロサイ3・12以下)と。
 サンチャゴさんと対面縮小 
 キリスト教信仰の出発点は、自分はなさねばならないことを知っていながらやれない駄目な人間だという認識です。そんな自分を、しかし、神さまは選んでくれ、変えてくれ、救ってくれたのだ、という信仰です。「選び」は神さまが人間を選ぶことであって、人間が神さまを選ぶことではありません。それは、何かそれにふさわしい功績を自分がしたからというのではなく、神さまの自由な恵みによるのです。それを忘れて、自分が選ばれたのは自分が偉いから、清いから、完全だからと考えるとき、おのずと傲慢になり、排他的となり、不完全者、不純物の存在を許せなくなってしまうのです。
 「選民は互いに忍び、互いに赦す」と聖パウロは語っています。ひょっとしたら毒麦は自分のほうではないか、と考えるとき、みずからに対しては厳しく、人に対しては最後まで待つという気持ちを持ちえるでしょう。(1984年2月4日神田基督教会)

写真について
1 左上:「恵みの時、救いの日」 (1988年5月出版)
  「あとがき」より「・・・ 私自身は、説教とはこういうものであると人に主張しえる人間ではないので、説教集をまとめてだすといったことにはためらいを感じましたが、本年一月脳腫瘍摘出手術のために聖路加国際病院に入院することになりましたので、万一手術の結果がよくないこともありえると考えて、これまでにしてきた説教をまとめることにしました。幸い、説教はワープロに打ち込んでいたので、取捨選択と編集の仕事を聖公会出版に依頼するだけで済みました・・・・」
 「正統と異端」はこの書物より抜粋: 顕現後第五主日に神田基督教会での説教。
2 右上:立教大学教授時代:多分、研究室で
3 左下:1962~1963英国カンタベリー聖オーガスティン神学校に留学中の写真
4 右下:岡野利治京都教区元主教からのお土産、サンチャゴ(聖ヤコブ)の像を見つめる崇(脳腫瘍摘出後、間もない頃)

  

年の瀬に思う

年の瀬に思う

 カンタベリー大聖堂 表紙IMG_0002
宗教法人法改正をめぐっての国会での激しいやりとりをみていて、改めて「宗教とは何か」ということを考えさせられています。

宗教には「聖なるもの」と「俗なるもの」、普遍主義的な価値と特殊主義的な価値があるということを教えてくれたのは、宗教史家エリアーデでした。

「啓蒙(けいもう)」という観点から人類の歩みを眺めれば、特定の時代、特定の民族や文化だけにしか通用しない「聖なるもの」や特殊主義的価値観は自然淘汰(とうた)されてきたし、これからも消滅していくと考えられがちです。
 
人類は、かつて宗教の名前で押し付けられ非合理的なものをめぐって争ってきたが、「自由」、「平等」「博愛」といった普遍的原理を見出すことによって、より良い社会をつくってきたというのが、多くの現代人の考えだと思われます。はたして、そうでしょうか。
 
自由、平等、博愛を旗印に革命を遂行し、人権思想を世界に広めたのがフランスですが、そのフランスが第二次世界大戦後も植民地の保持に固執し、現在では世界の世論に反してまでも核実験を強行するのはなぜでしょうか。
 
ブログ用ラムゼイ大主教の説教通訳 IMG_0017
自由とか平等とか博愛といっても、全人類が異論なく合意しえる普遍的価値ではないからではないでしょうか。自由と平等が原理的に矛盾しあうものであることは、否定できません。

 個人も民族も、特殊主義的な価値観や宗教に固執していては駄目だといわれても、宗教は本来特定の時代に特定の地域で出現した、特殊主義的性格を強くしています。
 
キリスト教はその最たるものでしょう。日本でも国民的祭日化したクリスマスは、二千年前に、ユダヤのベツレヘムで生まれたイエスの誕生日です。そのイエスの十字架上の死と復活によってしか人間は救われない、といった主張は「特殊性のつまずき」でしかありえないのです。
 
布教とは、他の人の特殊主義的価値観を捨てさせ、自分の特殊的価値観を受け入れさせることです。キリスト教も他の宗教も、そのような布教活動によって、世界的宗教となったのです。

 日本ではもちろんのこと、世界的にも近年キリスト教の停滞が指摘されています。この停滞が特殊主義的価値観の押し付けである「帝国主義的布教」への反省の結果であるとすれば、歴史の皮肉といわざるをえません。
(産経新聞・1995・12・22)

胡蝶蘭
写真左上:カンタベリー大聖堂 英国国教会の本山 撮影は崇による

写真右上:ラムゼイ大主教訪日の際、通訳を務めた崇 神戸聖ミカエル大聖堂にて

写真左:病気見舞いに送られた”胡蝶蘭” 崇撮影 写真の趣味は病床にあっても続いた。

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Author:eyyash
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